最近読んだ印象的な本三冊
2014-12-20 04:31:45
『アリス物語』芥川龍之介・菊池寛 共著(昭和2年刊)
これは不思議の国のアリスの翻訳本だけど、芥川龍之介が生前に途中まで翻訳し、菊池寛がその後を引き継いだ共訳なのが珍しい。
文例としてアリスとチェシャ猫との会話から抜粋。
『「気のむいた方へ行ってごらん。二人とも気違ひだよ。」
「けれどわたし、気違いの人達のところなんかへ行きたくないわ。」とアリスは言ひました。
「だが、さうはいかないよ。ここではみんなが気違ひなんだ。わたしも気違いだし、お前も気違いなのだ。」と猫は言ひました。
「わたしが気違いだといふことが、どうして分かって。」とアリスは言ひました。
「お前は気違いに相違ないよ。」と猫は言ひました。』
そういえば不思議の国のアリスって、世間的には少女向けのメルヘンみたいな美しいイメージが広まってるけど、実際は天才バカボンに近いよね。
最初から最後まで意味のないナンセンスギャグの羅列だし、些細な事で「死刑だ!死刑だ!全員死刑だ!」みたいに、常にヒステリーを起こして叫んでるトランプの女王なんて、本官さんそのものだし。
『北朝鮮の猛獣狩』三石白水 著(大正5年刊)
この本は報知新聞の記者三石白水の猛獣狩りの記録。
雪山で愛犬ジョン(ブルドック)と共に虎を追う。
明治44年北朝鮮の琴平山の頂上に、人力の軽便鉄道に轢かれて死んだ著者の愛犬ジョンを埋めて墓を作る。
朝鮮人の下僕を連れた二人旅で、近道しようと中国人の陣地と知りつつ入り込み、警備兵3人に見つかり、石や棍棒を手にした応援の30人程の集団に追いつかれたので、隊長格を柔道の技で断崖から投げ飛ばして危機を脱する。
本派本願寺の特派員で文学士の快僧、鈴木天戒と出会って気が合い、料理屋で無一文の二人は盛大に飲み食いし、鈴木天戒は大きな握り飯を二つ作って著者に渡し、後のことは任せろと言って著者を送り出す。
その後再び出会ったときには、宿屋で共に酒盛りするも、鈴木天戒が部屋からふと出て行ったと思うとそのまま帰ってこない。
宿屋の主人に尋ねると、めし代は著者から貰うようにと言ってそのまま出立したと知らされる。
『「時に坊主、鐘城の勘定は、どう始末をつけました」
「ムあれか、あれはなア、あの家の子供が去年死んで、ちょうど一年忌の命日が来たので、それで僕がサ仏壇の前で、お経を読んでやった訳サ、所が君五円包んで出してくれたが、勘定が七円余りあったから、やむを得ず日本人十二軒の家々を、ことごとく仏事供養して約十円余り寄せて、それで勘定して来たよ」
「ヘエー、世の中に坊主、丸儲けと言ふ言葉がありますが、ぢゃ丸儲けをやって来たのですな」
「マアその通りだよアハ……」
「どうだ君、坊主と言ふ商売も面白からうが、ことに彼((か))の握り飯窃盗事件なぞは、極めて大妙計だらう」
呵々((かか))また大笑す、独り我輩を座に残して、待てども待てども帰り来たらず、早速宿の亭主を呼んで、
「オイ坊主はドコへ行った」
「ハイ先程御出発になりました、そして宿銭はあなたから頂いておけ、武士は相身互いと言う事があるからなって、こんな事を申して出かけられました」
「オヤオヤ坊主め、また丸儲けやって行きやがったなア」』
著者は虎穴に潜んで虎の帰りを待ったり、一人で野宿中に狼の群れに襲われて撃退し、十八匹の狼を仕留めたり、虎や熊や豹を間近で仕留める。
距離が近すぎて下腹のあたりを噛まれたり、首の当たりに爪で傷を受けたりする。
著者はウィンチェスター式自動六連発銃を使っていた。
一人で嵐の中白頭山頂に登った時には、記念に『三石白水山上を究む、明治四十四年七月十五日為記念』と岩面に記し、登頂記念に、いつか化石になるように期待しながら山頂に脱糞してきたらしい。
雨中の下山中に天然の温泉を発見し、土を掘って一人分の温泉を作り、裸で入浴中に月の輪熊二頭に襲われて格闘し、刀と銃で仕留める。
その後白頭山の麓に広がる森林の赤松に目印を付けた場所まで辿り着き、安心した直後に豹に襲われ、下腹のあたりに噛みつかれつつ銃で仕留める。
傷の深さが三寸程だったので、
『「ウムこの位なれば心配に及ばず、絆創膏で大丈夫」と独り言しながら、用意の絆創膏を取り出して張り付け、痛みを忍び、実に四十有三日の山ごもりを続けて、二十有八日毎日毎夜の雨に打たれ、遂にマラリヤを病んで会寧に引き上ぐ』
三石白水は雑誌『分銅』の主幹もしている。
『初斎遺稿』 海浦篤弥 著(大正14年刊)
不穏な日清情勢を思い、妻を連れて朝鮮に住むことにした著者の海浦氏の元には、日本から色々な人が訪れ、酒を酌み交わして時事を語り合う場として梁山泊のように捉えられた。さらに著者は朝鮮に東学党の乱が起こると、危険を冒して東学党の根拠地に潜行して東学党の乱の党首と会談した。著者はその後帰国して外務省に入るも、朝鮮での生活が忘れられず、また朝鮮に渡って雑貨屋を開く。雑貨屋は正直な価格を守ったので繁盛し、大阪博覧会に登場した名古屋城の模型を買い入れて店の一部にするとさらに評判を呼んだ。その後日本商人の競争相手が続出したので、明治四十二年、店を閉鎖して日本メソジスト教会に建物を譲渡し、晩年は日本に帰り、その後動脈硬化性腎炎で56歳で死去。死後は僧侶を呼んで読経するに及ばず、また医学の研究のために自分の死体を解剖に使って欲しいと書き残している。本書はそんな著者の詩作等の遺稿を纏めたもの。
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