移木の信(徙木之信)
2011-01-27 21:25:22
史記には秦に仕えた商鞅の行ったこととして、民衆に新しい法令の信頼を得させるため、都の南門に木を立て、「この木を北門に移せば十金を与える」と発表しました。
民衆は初めこれを怪しみ、木を移そうとはしませんでした。
そこで賞金を五十金に増やすと、ある人が北門に移したので、商鞅はこれに賞金を与え、民衆の法律に対する信頼を得ることが出来ました。
同じような話は韓非子にもあります。
韓非子によれば、呉起は魏の武侯に仕え、西河の守になったとき、秦と魏の国境近くにある秦の小亭を攻め取ろうと思いました。
しかしあまりに小さいため、軍を起こすまでもないと思い、一計を案じました。
呉起は車の轅(ながえ)を市の北門の外に立てかけて、「これを南門の外に移した者には、上田上宅を与える」と発表しました。
しかし皆これを怪しんで、はじめは誰もこれを移す人はありませんでした。
やがてある人がこれを移すと、約束通り田宅を与えました。
また一石の赤豆を東門の外に置き、「これを西門の外に移す者には、上田上宅を与える」と発表しました。
今度は人々は争ってこれを移しました。
そこで「明朝、亭を攻めるが、先陣を切って働く者には、大夫の位の他に上田上宅も与える」と発表すると、人々は争ってこれに参加し、その亭は一朝にして落ちたということです。
商鞅は、秦が後に戦国時代の中国を統一する富国強兵の基を築いた人です。
呉起は孫子と共に、孫呉の兵法と並び称せられる程の人です。
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