ソロモン王の知恵
2010-05-30 03:16:18
キリスト教では、旧約聖書の創世記中の以下の箇所を根拠として、神が人を特別なものとして創造し、他の動物を支配する権限を与えたと説くそうです。
『神は言われた「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」』(創世記 1.26)
しかし同じ旧約聖書のコヘレト(ソロモン)の言葉では、人間も動物もかわりはしないと説かれています。
『神が人間に試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ。 人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。 同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない』(コヘレトの言葉3.18)
そしてコヘレトの言葉にこうあります。
『神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と。今あることは既にあったこと。これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる』(コヘレトの言葉3.11)
コヘレトとは伝道者の意味で、ソロモン王のことです。
ソロモンの知恵は有名です。
伝説では、当時の人類の中で、最高の英知を神から与えられました。
旧約聖書・列王記上3.5-3.12
『神はソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。 あなたに与えよう」と言われた。
ソロモンは答えた。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、聞き分ける心をお与えください」
「見よわたしは、あなたの言葉にしたがって、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にも、あなたに並ぶものはいない」』
ソロモンの知恵で特に有名なものは、二人の遊女が一人の赤子を、互いに自分の子だと言い張って訴え出た時のものです。
ソロモンは剣を持ってくるように家臣に命じ、「生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ」と言いました。
本当の母親は、この子を生かしたまま相手の女にあげてくださいと言い、偽の母親は、この子を殺して半分にして分けてくださいと言ったので、本当の母親がわかったというものです。
これと同じような話は、後世の大岡越前の活躍を描いた大岡政談にも出てくるので(二人の母親が一人のわが子の手をを引っ張り、子供の痛みを察して先に手を話した方が本当の母親)、元ネタはこれなのかもしれませんね。
しかしソロモンは、知恵を得た後に神を裏切り、異教の神々を祀るようになります。
ソロモンには七百人の王妃と、三百人の側室がいて、彼女らの祀る異教の神を祀ったそうです。
旧約聖書・コヘレト(ソロモン)の言葉
『すべては空(むな)しい』
『天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探求し、知恵を尽くして調べた。 わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった』
『わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。 知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す』
『わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう。 愉悦に浸ってみよう」 見よ、それすら空しかった』
『何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた』
『目に望ましく映るものは何一つ拒まず手に入れ、どのような快楽をも余さず試みた』
『賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。 しかしわたしは知っている。 両者に同じことが起こるのだということを』
『わたしはこうつぶやいた。 「愚者に起こることはわたしにも起こる。 より賢くなろうとするのは無駄だ」』
『神が人間に試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ。 人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。 同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない』
『賢者さえも、虐げられれば狂い、賄賂をもらえば理性を失う。 事の終わりは始めにまさる。 気位が高いよりも気が長いのがよい』
『善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある。 善人すぎるな、賢すぎるな。 悪事をすごすな、愚かすぎるな』
『人のいうことをいちいち気にするな。 そうすれば僕(しもべ)があなたを呪っても、聞き流していられる。 あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心はよく知っているはずだ』
『見いだしたことがある。 神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ』
『わたしは悪人が葬儀してもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。 これまた、空しい』
『この地上には空しいことが起こる。 善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある』
『それゆえ、わたしは快楽をたたえる。 太陽の下、人間にとって、飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。 それは、太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ』
『人間の前にあるすべてのことは何事も同じで、同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも悪い人にも清い人にも不浄な人にも、いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。 良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり、誓いを立てる人に起こることが、誓いを恐れる人にも起こる。 太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ』
『命あるもののうちに数えられてさえいればまだ安心だ。 犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。 生きているものは、少なくとも知っている。 自分はやがて死ぬ、ということを。 しかし、死者はもう何ひとつ知らない』
『さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。 太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。 それが、太陽の下で労苦するあなたへの、人生と労苦の報いなのだ。 何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。 いつかは行かなければならないあの陰府(よみ)には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ』
『足の速い者が競争に、強い者が戦いに、必ずしも勝つとは言えない。 知恵があるといってパンにありつくのでも、聡明だからといって富を得るのでも、知識があるといって好意をもたれるのでもない。 時と機会はだれにも臨むが、人間がその時を知らないだけだ。 魚が運悪く網にかかったり、鳥が罠にかかったりするように、人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる』
『若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。 青年時代を楽しく過ごせ。 若さも青春も空しい。 「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに』
ちなみに、善人に善果が訪れるとはかぎらず、悪人に悪果が訪れるとは限らないという思想は、仏教では異熟果(いじゅくか)と呼びます。
道家の思想だと、人間万事塞翁が馬の塞翁が説いた、糾(あざな)える縄の如しというのがそれです。
ソロモンは紀元前1000年頃のイスラエルの王で、王国の歳入は金666キカルでした。(列王記上10.14)
黙示録にいう獣の数字と同じですね。
ソロモンの母バト・シェバは、ヒッタイト人ウリヤの妻でした。
しかしソロモンの父であるイスラエル王ダビデが、既に人妻であったバト・シェバに懸想して、その夫であったウリヤが自分の部下であったので、戦いの最前線に送ってこれを殺し、ウリヤの妻を奪って産ませたのがソロモンでした。
ヒッタイトというのは、インドやペルシアの神官・貴族階級と同じ、アーリア民族です。
前十四世紀の北メソポタミアのミタンニ王国の王と、小アジアのヒッタイト王国のシュッピルリウマシュ王との間で交わされた条約文書の中には、ミトラとヴァルナというアーリア人の神が登場します。
ミトラとヴァルナとは、リグ・ヴェーダ中で、天上界の4言語と呼ばれる4アグニ中の2アグニの別名です。
4アグニは天界に隠され、その内の1アグニ(火神のアグニ)だけが、水の中から連れ戻されて、人間に与えられたといいます。
天上の水という思想は、創世記にもあります。
『神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」。神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた(創世記1.6)』
ミトラとヴァルナとは、リグ・ヴェーダではセットの神として賛歌を捧げられます。
ヴァルナは水神(水神のアグニ)です。
元来光の神であるアスラ(漢訳仏典の阿修羅。ペルシアではアフラ)族のヴァルナは、ペルシアではアフラ・マズダー(アスラ・ヴァルナ)というゾロアスター教の主神になります。
新約聖書でイエス誕生を祝福しに来た東方の3博士の原語はマギ(マジック=魔法の語源)といいますが、マギとはゾロアスター教の神官を指す言葉でした。
ミトラは牛の姿で表される契約の神で、キリスト教以前にアウレリアヌス帝のローマが国教に定めたミトラス教では、日照時間が最小になる冬至の日をもって太陽神ミトラの死と復活の日と定め、冬至の祭日12月25日をミトラの誕生日としました。
ミトラス教の次にローマの国教になったキリスト教は、クリスマスとしてその日を受け継ぎました。
ペルシアのゾロアスター教でもミトラは契約の神です
インドでは契約の神ミトラは、その別名マイトレーヤ(漢訳仏典の弥勒)が救世主信仰に発展します。
創世記ではすでに、アブラハムとヘテ(ヒッタイト)とは関係を持つので(ヘブライ民族の始祖アブラハムは、当時小アジアからカナン=パレスティナに進出していたヒッタイト人から、カナンのヘブロン地方のマクペラの洞窟を墓として買います)、古代ヘブライ民族が崇拝した黄金の子牛像や、契約の神としてのヤーウェはここから来ているのかもしれません。
ソロモンは紀元前1000年頃の王ですが、同時代の中国には、穆天子伝で有名な、崑崙で西王母と会見したりと不思議な伝説の多い、周の穆(ぼく)王)がいます。
崑崙とは仙人の国で、黄帝の住居があり、四階層に分かれています。
黄帝の四方位は、玄武・青竜・朱雀・白虎が守護しています。
ヨハネ黙示録の中で、白い血を持つ白衣を着たイエスは、明けの明星(金星)と呼ばれています。
ミトラス教のミトラも明けの明星(金星)と呼ばれます。
バビロンの王は、イザヤ書の中で天から落ちた明けの明星(金星)と呼ばれ、堕天使ルシファーも天から落ちた明けの明星(金星)と呼ばれます。
釈迦は明けの明星(金星)を見て悟りを開きました。
空海は虚空蔵菩薩求聞持法(こくうぞうぼさつぐもんじほう)を行なったとき、口の中に明けの明星(金星)の飛び込むのを感じて、経典を一語一句違わずに記憶できるようになりました。
この虚空蔵菩薩とは、白い姿をした金星の化身で、知恵の菩薩として崇拝されます。
陰陽道で、金星の精てある白虎の別名金神(こんじん)とは、うしとら方位(鬼門)の祟り神です。
南米の白い肌をした金星の神ケツァルコアトルは、人類に文化を与えた神で、十字架と火打石を象徴とし、、死後は救世主として戻って来ると信じられていました。
時代がくだり、原住民のインディオ達は白人の白い肌をケツァルコアトルの再来と信じ、簡単に土地を奪われてしまいます。
白い心臓の4方位の門番である、インドのミトラもヴァルナも、4アグニの一人です。
白い姿をした中国の白虎(金神)は、4方位神(玄武・青竜・朱雀・白虎)の一人です。
白い心臓になった南米のケツァルコアトルも、4方位神(4テスカトリポカ)の一人です。
白い姿をしたイエスも、ヨハネ黙示録では、二人の証人(キリスト)と、二人の獣(反キリスト)との4人の内の一人です。
二人の証人とは、二人の油注がれた者=キリストと呼ばれ、旧約聖書のゼカリヤ書では、大祭司ヨシュア(イエスのヘブライ読み)とゼルバベル王として登場します。
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