宝塚歌劇の歴史の本

2011-01-08 04:26:10

宝塚歌劇の創業者で、阪急電鉄の創業者でもある、小林一三さんが書いた、『宝塚生い立ちの記』を読みました。

宝塚歌劇は、宝塚温泉と箕面とに鉄道が通ったので、電車の利用客を増やすために考えたそうです。

鉄道開通は明治四十三年三月。

箕面には動物園を作り、盛況だったそうです。

宝塚には大理石作りの大浴場を作りました。

しかし箕面は国定公園なので、大自然を保護しようということになり、娯楽は宝塚に集中するという方針転換から、動物園はわずかな期間で閉園になったそうです。

そこで明治四十五年七月一日、宝塚に近代的な洋館を建て、屋内プールを設け、『パラダイス』という名前で宣伝したそうですが、当時は男女が同じプールに入ることは禁止されていたのと、温泉街なのに水のプールということで、結局失敗に終わったそうです。

宝塚歌劇は、大阪の三越呉服店に少年音楽隊があったので、宝塚には少女音楽隊を作ろうと思ったそうです。

宝塚唱歌隊として募集し、一期生は大正二年七月に入った十六人でした。

二期生が四人入った所で、宝塚少女歌劇養成会になり、この一、二期生で、宝塚歌劇の初舞台が、大正三年四月一日に行われました。

第一回公演は、さきの屋内水泳プール、『パラダイス』の水槽を観客席にして行なったそうです。

歌劇の作曲は安藤弘、生徒に声楽を教えたのは、その妻の智恵子でした。

この御夫妻は、大正ニ、三年頃の、まだ学生の男女交際が批判された音楽学校時代から、恋愛関係にあったそうです。

智恵子さんは音楽学校を首席で卒業したそうです。

宝塚歌劇の初期には、この安藤弘さんが楽譜を持って失踪したことがあるそうです。

そこで創業者の小林一三さんは、内心は困っていたのに、外には困った顔を少しも見せず、唱歌をたくさん用意して、糊とハサミで切り貼りし、ここにはこの唱歌、間に芝居のセリフを書き入れてと、そんな感じでたくさんの脚本を作り、上演したそうです。

小林一三さんがぜんぜん困っていないと知り、安藤弘さんは泣きを入れて帰ってきたそうです。 

天水晶の心臓

過去に書いたものでも置いて行こうかと思います。

0コメント

  • 1000 / 1000