父の死と母の入院
2016年5月4日(3日の0時を越えて1時45分)、父が亡くなった。
意識がなく様子がおかしいので、昼間救急車を呼び、俺と母と二人で同乗し、O脳神経外科病院に入院した。
翌日母と二人で見舞いに行くと、病名は脳梗塞で、医者のレントゲン写真を見せてくれながらの説明によると、片方の脳に全く血流が見られない。片方の脳に血液を送る血管が塞がっているので、パイパス手術をしないといけないけど、お父さんの年齢と体力だと手術を持ちこたえられそうにないので、様子を見るしかないと言われた。
その後面会できた父の意識はなく、口に人工呼吸器が繋がれていた。
俺は呼吸は鼻からの方がいいのになと思った。
それから数十分だったか数時間だったか、俺は父の血流の止まった方の頭に手を添えて、俺の足の親指が再生した時のやり方を試していた。現代医療で手の施しようがないなら、ダメ元で何でも試してやると思った。
翌日母と二人で見舞いに行くと、担当医から父が奇跡的に回復したと告げられた。
レントゲン写真を見せてくれながらの説明によると、血流の止まっていた片方の脳にも全体に血液が巡っているということで、原因が全く分からないと言われた。
その後父と面会すると、父は人工呼吸器を外し、意識がしっかりし、普通に会話が出来たので、母と父と俺と三人で、庭の畑の豆の手入れの話をして三人で泣いた。
俺はこの機会に父を連れて帰ろうと思い、担当医に相談すると、担当医は頑なで許可してくれなかった。
原因を調べたいから明日は朝から色々検査する予定だとかで、父との面会も、危篤状態が回復したら制限時間が決められているからと行って追い返された。
なので今回は父に俺流の治療(?)は出来なかった。
翌日神奈川に嫁いだ姉が来て、一緒に面会に行くと、父の意識はなく、人工呼吸器を繋げられてぐったりした父の姿があった。
病院側が心配いらないというので、信用して家に戻ると、夕方近くに病院から電話がかかり、父が危篤だからすぐ来るようにと言われた。
取るものもとりあえず三人でタクシーで父の病室に行くと、今すぐどうこうという切羽詰まった状態ではないということで、長くなるかもしれないからと、母と姉が一旦家に必要なものを取りに戻った(夜中冷えたときな着る上着とか夜食とか)。
俺は父と二人、俺はまた父の血流の止まった方の頭に手を添えて、ダメ元で俺の足の親指が再生した時のやり方を試した。
そして俺は子供の頃の父との楽しかった思い出話(一緒にキャッチボールをしたり、父の自転車の後ろに乗って二人で猪名川に行ったり、父と二台の自転車で一緒に千里川の源流を探しに箕面まで行ったり、運動会の前日の夜、父に誘われて千里川の周りを走りに行ったり)とかの話をして、父に「大好きだよ」と伝えた。
父は意識があったのか、一度自分で口の人工呼吸器を外し、何かを伝えようとしたけど、聞き取れなかった。
仕方なく俺は人工呼吸器を戻し、父に今晩はずっと側にいるからね。夜中目覚めても寂しくないようにずっと手を握ってるからねと伝えると、父は安心して眠ったようだった。
その直後くらいに看護師が来て、危険な状態から脱して安定しているのでもう大丈夫です。なので面会時間を守ってお帰りくださいと言われた。
(家族が側にいるから、安心して状態が安定したとは決して考えない病院側)
程なくして母と姉が到着したけど、それから看護師に帰宅を促されるも納得できないでいると、看護師は折衷案として、一階の待合室でなら朝まで居てもいいですよと言ってくれた。
夜中の1時45分の少し前、看護師が走ってきて父が危篤だと言うので、一度目の危篤が大したことなかったので(自宅からタクシーで来る時間の余裕があった)油断した母と姉は、空き缶や弁当のゴミを片付けてから来たので、俺が看護師さんに付いて最初に父のもとに到着した。
到着すると父はもう死んでいた。
葬儀も終わると、金銭的な問題が出てきた。
父が亡くなったのが80歳の誕生日を迎えてから半年後だったので、父の生命保険はどれも80歳で期限が切れていた。
阪神大震災で家を建て替えた住宅ローンも、10年分700万円の未払い分が残っていて、住宅ローンで強制的に加入させられる生命保険の方も、80歳で期限が切れていた。
結局相続税やら何やらで貯金が尽きかけたので、苦肉の策で交際費を削ることにした。
つまり親戚にお中元とかお土産とか貰っても、「お返しできないので次からやめてくださいね」と言って、全ての親戚づきあいをやめた。
母に何かあったとき、病院代が払えないじゃどうしようもないので。
父が亡くなったので新聞を取るのもやめ、散髪も俺が自分のも母のもやり、スーパーで食材を買うのはどんなに使っても一度に1万円まで、1万円使うと最低十日間は買い物に出かけない。服は買わない。
こうしてコツコツ節約した。
しかし運の悪いときは重なるもので、この頃エアコンと、ビルトイン式のガスコンロ(15万円)と、水道の蛇口(一つ5万円)が2つと、インターホン(カメラ付きで修理費7万)と、電子レンジと、洗濯機が壊れ、ゴキブリが大量発生(その後コンバットで全滅した)していた。
父が生きていた頃に予約を入れていた、母の白内障の手術に眼科に通う間、梅雨の時期なのに一度も雨が振らなかった。
あと庭の大きな柱サボテンの花が今までにないほど満開になり、母がこんなに咲くとキモチワルイと言った日、全てのサボテンの花がボタッと落ちた。
俺が母に、父の生前、母がサボテンの花が好きだと言っていたので、父が咲かせてくれたのかもしれないよと言い、母が納得してくれたら、またサボテンに花が咲き始めた。
2020年4月24日、母が急性硬膜下血腫で入院した。
救急車を呼び、コロナの影響で受け入れ先が見つかったのがその四時間後だった。
普通なら自然治癒するほどの傷が、脳梗塞の予防薬として血が固まりにくくなる薬を飲んでいたために、出血が止まらず、脳が溜まった血液に圧迫されて片側に偏っていた。
頭蓋骨を外して血を抜く手術をした。
助かるかは五分五分と言われた手術は成功したけど、コロナの影響で面会は禁止。
電話も原則本人には繋げてくれない。
5週間の入院中に2日に一度電話して母の様子を訊くと、日に日に弱っていく。
早くなんとかしないと手遅れになるかもと焦る俺。
ネットで調べたら、医者には二種類あって、リスクを承知で口から食べさせるように頑張る医者と、保身に走って患者が食べる量が少ないだけで、鼻からの栄養管の挿入から、安易に胃瘻(腹部に穴を開けて胃に栄養感を繋げる)に進む医者と分かれるという。
母の担当医も入院してもう5週間経つのに鼻からの栄養管抜く気ないみたいで。
母は本当なら3週間入院してからリハビリ専門の病院に転院すると言われたのが、コロナの影響で転院先が見つからずにさらに二週間経ったので、それなら自宅でリハビリさせようと思い、嚥下障害の人への安全な食べさせ方をネットで調べて勉強した。
①食道は背骨側にあり、気道は喉仏側にあるので、
リクライニングで角度をつけて、重力の影響を利用して食べさせ、誤飲を防ぐ。
さらに、やや顎を引いて気道の入口を圧迫させて嚥下させる。
②常温のものより、冷たい状態のほうが飲み込みやすい。
③トロミの足りないものは、片栗粉や市販の増粘剤でトロミをつける。
④並行してネットで紹介されている嚥下回復訓練を行う。
もしも鼻からの栄養管が必要になった場合の保険として、在宅医療サービスに申し込むと、相手は気軽にOKしてくれた。
数日後、担当医から直接電話がかかってきて、担当医の要求が大きすぎてうちではとても受けられないと断りの電話がかかってきた。
しかたがないのでダメ元でかかりつけのクリニックに栄養管が必要になった場合対応してくれますかと訊くと、うちは在宅医療サービスもしているので毎日でも行きますよと言ってくれた。
数日後、また担当医から直接電話がかかってきて、担当医の要求が大きすぎてうちではとても受けられないと断られた。
俺は最悪別の病院に入院させようと心に決めた。
母は退院するときには鼻からの栄養管を抜いてもらったけど、投薬の副作用か、全身が赤黒く変色し、日焼け後のように全身の皮が剥けかけ、全身蕁麻疹に覆われて、言葉も喋れない状態で、少しだけ右手を持ち上げて意思表示出来るだけの、自力で起き上がることも出来ない状態で退院した。
担当医は姿を見せなかった。
退院した直後から10日間くらいは、起き上がりこぼしのように上半身が起きては瞬間的に前後左右どれかに倒れを繰り返す(長いときには連続12時間くらい)ので、目を離したすきにベッドの縁から頭から落ちたり、床に座らせていても、倒れては起きの反動で移動していて、色々なものに頭をぶつけるので、硬いテーブルの縁とか、足とか、角とかに柔らかい布やタオルケットを巻いて回った。
床もフローリングなので、布団を敷き詰めた。なのに意識が安定せずに巻いた側から剥がしていく母。
24時間目が離せない。
トイレに行って戻ってみると、大きなコブを作って「頭打った」と泣いている母。
おもらしもあちこちに移動しては頻繁にする。
24時間寝ずに側にいるのは可能でも、トイレや布団干しでどうしても目が離れる瞬間がある。
困って姉に電話して、頼むから一週間だけでも手伝いに来てほしいと二度電話して頼んだら、二度ともあっさり断られた。
実は向こうにも何か事情があってしかたないのかもしれないけど母の命がかかっていた時なので、縁を切ろうかと真剣に考えた。
そういえば12月に母が脳梗塞から退院した初めの10日間くらいも、目が離せなくて俺が寝ずに面倒見ていたので、そのときも頼むから一週間だけでも手伝いに来てほしいと頼んだけど、そのときも断られたな。
まあいいけど。
結局今回の退院後も10日間くらい寝ずに介護した。
母は退院後、翌日には蕁麻疹も治り、二日目には片言の会話ができるようになり、四五日で赤黒かった肌も正常に戻った。
退院当日の6月1日、今回のために購入したリクライニングシートでエンゲリードという嚥下障害のある人用のゼリーを問題なく完食したので、次にリクライニングなしで普通に身体を起こして、ネスレの150Kカロリーの栄養補助のアイソカルゼリーも問題なく食べれたので、次のネスレの栄養補助ドリンクは好みに合わないようで少ししか飲んでくれず、裏ごしした玄米のお粥である玄米クリームを食べさせると、これも口に合わないようで、一口しか食べてくれなかった。
担当医が言うには、母は自力で痰が出せない状態なので、退院したら痰の吸入器を用意しないと退院を許可できないと言うので購入した痰の吸入器も一度も使っていない。
そんなわけで、退院二日目の夜、母はコンビニのたまごサンドを一つ食べれた。
三日目には母は自分から手すりに掴まって歩く練習を始めた。
四日後には551の豚まんを一個食べた。
三週間後の21日、母は歩行器で一人で庭の門まで歩いてこれた。
ご飯も一人で食べれるようになった。
四週間後の27日、母は自分で裁縫道具を取りに行き、ちぎれていたパジャマのボタン二個を自分でつけた。
K病院の担当医Yが脅したように、君が家で面倒見ても二三日でお母さんは絶対死ぬよとか、良くて一生鼻からの栄養管抜けなくなるよとか、それでもどうしても退院させたいなら、胃瘻(腹部に穴を開けて胃に栄養管を繋げる)の手術の許可をくれたらこちらで胃瘻の手術をして返すからぜひそうしなさいとか、そういうことにならなくてよかった。
担当医はすぐ感情的になり、人の話を全然聞かずに自分の言いたいことしか言わない人だった。
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