砂持と蝶々踊り
傘とか大根とか様々なコスプレをしているので、ああ日本だなと思います。
蝶々踊図屏風
天保8年(1837)、大坂(現在は大阪)では大塩平八郎が救民のために反乱を起こし、その余波で天満宮も焼失しました。
翌天保9年、天満宮再建のための砂持(すなもち)が行われました。
この砂持というのは、氏子などが川を浚(さら)えて得た砂を運び、社地を整える神事です。
この期間民衆はお祭り騒ぎで、大正6年刊行の『国史叢書(浮世の有様巻之八・天神砂持の盛況)』によれば、大家(たいけ)の主達は手代を引き連れ、阿波や安芸の留守居役や、与力・同心の中にも異形の出で立ちで踊りに参加した者が出たそうです。
それ以下の身分の者の浮かれようは言わずもがなで、その騒ぎが評判になり、諸国からは見物人が集まり、さらに大盛況となったそうです。
彼等は町奉行や与力の前でも、浮かれ踊り続けました。
しかし奉行所側は、民衆のために蜂起した大塩平八郎を討伐していた手前、民衆の機嫌を取るために、これを止めようとはしませんでした。
明治34年(1901)の大阪朝日新聞には、当時のことを振り返り、『六十格好の老婆が皺だらけの顔を白粉に埋め、お染の振袖姿あどけなく練り行くもあれば、市松人形を背負い鼻に墨を塗りて子守に打扮ちたるもあり何れも阿保は同じく』とあります。
さらに翌天保10年春、今度は京都で、大坂砂持に倣い、蝶々踊りと呼ばれる前代未聞の狂乱が起こったそうです。
これも老若男女貴賎を問わず、京都の町中で大流行し、他所からの見物人も合流し、町中が火事場のような喧騒になったそうです。
当時の随筆『寝ぬ夜のすさび』には、『諸人狐つきの様に相成、皆々昼夜踊り歩き、追々甚だしく、家々へ踊り込み、床の上へあがり、座敷まで土足のまま踊り』とあります。
蝶々踊りは大正11年の『奇態流行史』でも取り上げられています。
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