ムー大陸と仲木貞一と竹内文書と小谷部全一郎とキリストの墓

仲木貞一は劇作家で、息子の仲木繁夫はテレビドラマの『怪奇大作戦』の監督として有名です。

さて前回は、1930年(昭和5年)に出版さ れたカルト本の古典、酒井勝軍の『神代秘史百話』の紹介をしましたが、日本でこの本が出版された翌年、1931年(昭和6年)には、アメリカでカルト本の 古典、ジェームズ・チャーチワードの『The lost Continent of Mu』(失われたムー大陸)と、『The Children of Mu』(ムーの子供たち)が出版されています。

そしてチャーチワードのこれらの本が出版された11年後、1942年(昭和17年)には劇作家の仲木貞一が、『The lost Continent of Mu』(失われたムー大陸)と『The Children of Mu』(ムーの子供たち)を合わせた抄訳を、『南洋諸島の古代文化』という書名で出版しています。

今回はその仲木貞一の『南洋諸島の古代文化』について、批判を交えながら紹介してみたいと思います。

この本を読むと、訳文の途中で仲木貞一自身の感想として、竹内文書の記述を当然のように、チャーチワードの主張の補足として使用しています。

背景の年代を整理しますね。

1910年(明治43年)、竹内文書の所持者竹内巨麿が、天津教の開祖になる。

1928年(昭和3年)、記紀に登場する不老長寿な武内宿禰、その子孫に伝えられたという神代の記録、竹内文書を竹内巨麿が公開する。

1929年(昭和4年)、酒井勝軍が天津教の皇祖皇太神宮に赴き、竹内巨麿の所持する竹内文書を閲覧。酒井勝軍はそこでモーセの十戒石も発見し、『参千年間日本に秘蔵せられたるモーセの裏十戒』を出版。

1930年(昭和5年)、酒井勝軍の竹内文書紹介本、『神代秘史百話』を出版。この年から天津教弾圧が始まる。

1931年(昭和6年)、アメリカでチャーチワードの『The lost Continent of Mu』(失われたムー大陸)と『The Children of Mu』(ムーの子供たち)が出版される。

1935年(昭和10年)、竹内巨麿が青森県でキリストの墓を発見。

1942年(昭和17年)、劇作家として成功していた仲木貞一(当時55歳)が、ジェームス・チャーチワードの著書の翻訳、『南洋諸島の古代文化』を出版。

それでは太平洋戦争の最中に出版された、『南洋諸島の古代文化』中の、仲木貞一が竹内文書に言及した部分を抜粋してみましょう。

まず仲木貞一の書いた緒言(前書き)から。

『こ の書は、米国の陸軍大佐ゼームス・チャーチワードの"The lost Continent of Mu" "The Children of Mu"(1931)の抄訳である。尚この他に同著者は、"The Sacred Symbols of Mu"という本をも出しているが、共に皆今から約一万二千以前に太平洋中に陥没したムー大陸に関する五十年間にわたる研究調査を発表したものである。』

中略

『この大陸は一万二千年の以前に陥没しても、その残骸である南洋諸島は、今度新たに大東亜共栄圏の傘下に属して、我日本帝国の指導を仰ぐという意味において、そのかつての母体であったムー大陸に関する研究は、益々我々に必要となって来たのである。』

中略

『我 が神代において米国はヒナタエピロス、ヒウケエピロスと称し、ムー大陸はミヨイ国及びタミアライ国と称して、いづれも我が神々の統治下にあった国々なので ある。八紘一宇((注1))の大御心を持って、それ等の民草を愛撫なされた名残りが、今日に伝わっていると見てよかろう。』(p1-p3)

ヒナタエピロス、ヒウケエピロスというのは、前回私が書いた、酒井勝軍の『神代秘史百話』のアメリカに関する所で出てきましたね。

ミヨイ国及びタミアライ国も同書中に登場しますが、前回の文脈では必要ないので触れませんでした。

エピロスもミヨイ・タミアライも、竹内文書に独特のもので、記紀には登場しません。

それを当然の日本神話のように持ち出してくる仲木貞一は、かなりの竹内文書の心酔者だったのではないでしょうか。

同じく仲木貞一の書いた緒言(前書き)から。

『原書借覧の便宜を与へられた、大政翼賛会調査部長藤沢親雄氏の御好意を、深く感謝する。』(p5)

竹内文書を公開する天津教は、1930年(昭和5年)以降、詐欺罪や不敬罪で数度の弾圧を受けていることを考えると、大政翼賛会と繋がりがあるのは少し面白いですね。

戦時中で、大政翼賛会調査部長の便宜で翻訳した本なのに、竹内文書の内容を持ちだしているにもかかわらず、検閲を通る所が。

本文中の仲木貞一による補足部分から。

『註--日本の古記録には、北米をヒナタエピルス、南米をヒウケエピルスと称して、日本と種々深い関係のあったことが記されてある』(p206)

この日本の古記録とは、竹内文書のことです。

同じく本文中の仲木貞一による補足部分から。

『なおキリストがインドに赴いたということは、一九一〇年頃に、ロシアの一学者が、インドの古寺院においてキリストの肖像とキリストの書き記した文字--日本 古代の龍文字--を発見したのを機会に、種々調査を行って、これを自国において発表しようとしてニコライ教主の怒りに触れ、仏国に亡命して、フランス語をもって「残されたるキリスト」という書物を発表している。更に又キリストがチベットに滞在中、日本に来朝して数年間神道を研究したこと、その後ゴルゴタの 丘の十字架を遁れて再び日本に来朝、百余歳まで治病に従事して、青森県五戸在に死去。今日そこに墓があり、子孫の沢口家がそこに現存することは、余りにも 有名な事実である。--訳者付記』(p240)

1935年(昭和10年)、酒井勝軍の招きで青森県戸来村を訪れた竹内巨麿は、その村に あった塚を眺め、これこそまさに竹内文書に記されたイスキリス・クリスマス・フクノカミの墓であるとして、村長にイスキリス・クリスマス・フクノカミはイエス・キリストのことであるから、これを祀(まつ)るようにと伝えました。

これを村人達が鵜呑みにしたのが始まりです。

仲木貞一が1939年(昭和14年)に出版した、『キリストは日本人なり? その遺跡を探る』もついでに紹介しておきます。

『突然外国の新聞記事

昨昭和十三年十一月二十二日のニューヨーク新聞紙上には、驚くべき記事が載っていた。

それは、イエス・キリストが、日本に来て、日本で死んだ--その墓は、青森県の片田舎にあると云って、その墓の写真までも添えてあったことだ。

ところで、この米国新聞の記事は、一ニューヨーク紙のみではなく、全米にわたり、あらゆる新聞に載せられてあるといったそうである。更に種々調べて見ると、 それより以前に、日本の主なる新聞の地方版や雑誌等にもその事が載せられてあったのだ、というし、山根菊子女史は、キリスト渡来説ばかりでなく、モーゼも 釈迦も、皆日本に来て、そして、日本で死んだのだ、という事を記した特別の著書「光は東方より」という物までも著はしてあるという事を、後になって知った 次第である。』

中略

『出来得べくんば、これを映画に収めて、普((あまね))く世間に知らせたい、と思った次第である。』(p2-p3)

こうして、仲木貞一は青森県のキリストの墓のある村まで行くと、『まんじゅう形の土が二つ丸くふくらんでいる』所に案内されます。

その内の一つが、イスキリス・クリスマス・フクノカミ、つまりイエスの墓で、他の一つがイエスの弟のイスキリの墓だったといいます。

(イスキリの名は、聖書にも、聖書関連のどんな書物にも登場せず、この名が登場するのは、ただ竹内文書のみです。)

そして、『二つの塚の間に、小さな土まんじゅうが一つ座っているが、それは、何の塚だか分からない』、ということです。

さらにその村の近くには、酒井勝軍がピラミッドだと言い出した山があります。

仲木貞一は、『エジプトのそれは、年代において日本よりも新しい、というような話も聞かされた。更に又ピラミッドという名前は、エジプト語ではなく、天日人を照す天人合一を意味する純然たる日本の太古語だ、と聞かされ』たそうです。

もちろん【ピラミッド】はエジプト語ではなくて、ギリシア語です。

【スフィンクス】も、【オベリスク】も、【ヘリオポリス】もギリシア語です。

この書によれば、仲木貞一がこの村を訪れる以前に、哲学博士の小谷部全一郎もここを訪れ、霊界からキリストの霊を呼び出したそうです。

『小谷部 「貴方は、日本で妻を娶りましたか?」

キリスト 「娶りました。私が四十二歳の時、名をゆみという二十歳の女を娶りました……私を非常に愛してくれました……」

小谷部 「その女性は、どういう身分の人でしたか?」

キリスト 「決して卑しき者の娘ではありません。ある立派な家柄の家の娘でした」

小谷部 「日本では布教をなさいましたか?」

キリスト 「いいえ、少しも……」

小谷部 「磔刑の時身替りを立てたのは、貴方の方から頼んだのですか?」

キリスト 「いえ、弟が進んで身替りとなってくれました。私には未だ為すべき事が沢山あるから、何卒((なにとぞ))死なずにいてくれろといって……しかし、私は七日七晩泣き通しました……」

小谷部 「子供さんがありましたか?」

キリスト 「三人ありました。それは、皆女でした……」

霊媒による問答は、右のようであったそうである。』(p22-p23)

キリストは垂仁天皇の時に日本に来て、八戸太郎と名乗ったそうです。

小谷部全一郎は、ジンギスカン=源義経説で有名な人です。

最後に個人的な感想を。

どんなに整合性の無いカルト宗教も、末端の信者だと、純粋で真剣な人が多いですよね。

教団の上の方の人は、きっと打算があると思うんですが、中には統合失調症の教祖が、打算的な幹部から祭り上げられているパターンもあるかもしれません。

疑問を持たずに単純にカルト思想を信じていると、偽りの真理に酔ったままで人生終わってしまいますよ。

まあ世の中の多くの人には無用な忠言でしたね。

注1

八紘(はっこう)とは天の八つの隅の意味、一宇(いちう)とは空間という意味です。

八紘九野(淮南子・原道訓)

世界の八つの隅と、中央と八方位の野。

往古来今、謂之宙、四方上下、謂之宇(淮南子・斉俗訓)

過去・現在・未来、これを「宙」という、四方上下、これを「宇」という。

天水晶の心臓

過去に書いたものでも置いて行こうかと思います。

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