東郷平八郎の逸話
韓国は東学党の乱にあい、清国と日本がそれを理由に出兵して日清戦争に発展します。
この間の経過については、衆議院議員当選十回、東京日日新聞の社長も務めた、関直彦77歳の時の回顧録『七十七年の回顧』(昭和8年、1933年)に出ています。
明治神宮の造営は、明治天皇陵を東京周辺に作って欲しいとの関直彦の願いが聞き入れられず、京都の桃山に造営が決まったので、その代わりに東京市民が近くで参拝できる明治神宮のアイデアを出し、議会の承認を経て実現したそうです。
そんな関直彦がこの回顧録の中で、日清戦争の原因について語っています。
当時伊藤博文内閣の外相だった陸奥宗光は、「清国と互いに認め合う親密な同盟をもって西洋列強の東洋支配に対したいと思うのに、清国の対応は日本を見下しているので対等な同盟が結べない。ならば清国と一戦を交えて日本の実力を知らしめ、現在の日本の実力を認めさせねばならない」と伊藤博文に相談しますが、伊藤総理は慎重でその論を認めません。
そこで陸奥外相は、参謀総長川上操六と相談し清と戦って勝てる見込みがあると分かると、朝鮮在住の公使に、どんな些細なきっかけでもよいから清国との戦端を開けと秘密訓令を送り、その訓令は実現されます。
清国は増援の部隊数千人をイギリスの輸送船カウシン号に乗せ、朝鮮の仁川を目指していました。
その増援が到着すると、朝鮮在住の日本軍の数では不利になります。
当時一艦長であった東郷平八郎の浪速艦がこれを発見しました。
しかし清国軍が乗るのはイギリスの輸送船なので、これに発砲すると国際問題になります。
浪速艦の幹部の意見は二つに割れました。
攻撃すべきか、攻撃せざるべきか。
そのとき東郷平八郎が一言、「腹切りゃよか」と言うと、幹部たちの意見はたちまち纏まり、イギリスの輸送船を数千人の清軍共々海に沈めました。
これが後で問題になり、東郷平八郎の責任問題が閣議で持ち上がった時、海相だった西郷従道(西郷隆盛の弟)の、「東郷は馬鹿でごわんす」の一言で東郷平八郎の処分は無しと決まり、それから10年後、東郷は日露戦争で東洋艦隊司令長官を努めることになります。
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