海軍少将藤森清一郎の講演
戦時中の1944年に出版された【太平洋と自由主義】。
これは海軍少将の藤森清一郎の講演の内容を本にしたもの。
藤森清一郎は、狡猾な英米に備えるために戦争の準備だけは整えておくべきだと少佐時代から進言していたが、その度に軍の上長に握りつぶされ、日米開戦後、戦況が危うくなってからようやく、意見を求められるようになったらしい。
日清日露の戦勝に浮かれた日本は、ろくな準備もしないまま米国と開戦したことがよくわかる。
(抜粋文中の旧字は今の漢字に変えました。)
『例えば今日の戦局の事、つまり内南洋がかうなったといふ事についても、私は戦勝祝賀会の席上で、今徒らにこんな戦勝を祝っているやうなことをして居ると、近い内に必ず取返しのつかぬことになるぞと一生懸命に云ったのです、然しです誰も聞かなかったのであります、この事を発表したのも本になっていますが二年数ヶ月前の事です。その時海軍、陸軍の報道部長が来まして、やがてロンドンで入城式をする、ニューヨーク沖で凱旋観艦式をやるんだといって狂喜したものです。その頃疎開なんていふ事は思ひもよらない事であった。今首都を離れる者は意気地無しだ、どんな年寄りでも子供でも首都を守らなければならぬといっていました。然るべき指導者がさういふ事をいっていたのであります。大都市の疎開といふものは戦を開く迄にやっておくものです。戦が始まった時は遅いのです。』p8
『あの戦勝祝賀会の時に私は、さう容易に米英が降参するといって喜んで居ると次々に楔が入ってくるに決まって居る、しかもさうなると今度はそれを追い払うのには相当の苦労が要るぞといふ事をいったのですが、そんな事には耳を貸すことはなかったのであります。』p9
『日露戦争の時は日本の武器弾薬の大部は欧米で出来たものであります、しかも金を出して欧米から武器弾薬を買って来て戦争をしたのです。当時は油は燃料になって居ずに石炭を使ひましたが、その石炭の一塊までも向こうから買っていたもので、筑豊炭なんかも煙が出るからいけないといって使わずに外国から買っていたものです。軍需品を他から買って外から補って軍人が国外で戦をした。従って国内に於ける生活は急迫しなかった。物が配給制といふ事にはならなかったのであります。そんな戦争をやって居ったに拘らず、自力でもって戦争に勝った、自分は自分の力で戦をして勝ったのだと思わせた事が日本の国民を一番に間違させる事になったのです。』p10
『日本の生命線たる支那から兵力を引けといっておいて戦ひなしで済むと思ったといふことは何事ですか、それ位、日本の弱い所を皆米が握っていると考えていたからです。軍需資源といはず衣食住といはず米国に依存していたといふ現実から見て、未だ日本は米国と戦ひは出来ないだらうといふ事を信じていたのです。それで支那から兵力を引けといってきた、支那から兵力を引いた場合はどういふ事になります、支那に於ける権益を失ひ何十万といふ日本人は支那に居られなくなる。又満州はどうなるか、蒙彊が失われるといふ事になったら日本はどうなりますか。然しそれだけの状態に於いてまだ日本を馬鹿にして日本は戦ひは出来ないと思わせたのは日本です。余りに米国に依存していたからです。経済界は国内より信用を持って英米に金を預ける、又それだけでなく日本は米国から物を買はなければならない、日本には食う物が不足だ、着る物が不足、建物の材木でさへ不足しているといふ事になっていたのであります。』p16
『この間ある中学の校長さんが私に話していたのですが、用のために木曽へ行った所が、その時あちらでもこちらでも橋が壊れている、見ると皆メリケン材なのです、驚いてどうしてこんな所までメリケン材が入って来たかと聞くと、安いからだといはれたといふのです。それはさうです自由主義とはさういふものです。水が低きに流れる様に金は安きへ安きへと流れるものです。日本の木材より米の方が安いからです。木材は幾らでも近くにある木曽ですら安いがためにメリケン材を使ふといふ事になるのです。つまり平常から安い木材を日本に売ってをいて、一切の需要を外国の物で間に合ふ様にさせてをくと、いざ戦争が起ったといふ事になりますと外国からは木材は入らなくなる、そこで必要なものは国内の山から伐って来るといふ事になります。急に多量の木材を山から伐り出すといふ事になる、米からは石油が入らなくなる、木炭自動車にしなければならない、それには木炭がうんと要る、又鉄の代わりに木を使ふ部分が増えて来た、幾らでも木が要ります。今迄は外国のものを使ってすませて居たが今度は国内の山から切り出さなくてはならなくなって来て、どんどん伐るので、禿山が多く出来る』p17
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