韓国について腑に落ちない点
俺は別に嫌韓というわけでもないし、在日の友人もいるけど、韓国に関しては腑に落ちない点がある。
1274年と1281年に、元軍の命令で韓国人の祖先は日本侵略に向かい、撃退されて大量の死者を出したのに、モンゴルを恨まず日本を恨み、
1948年の朝鮮戦争では、『アメリカ国防総省によれば、約24万5000から41万5000人にのぼる韓国側一般市民の犠牲が明らかにされ、戦争中の市民の犠牲は150万から300万(多くの推計では約200万)と見積もられている。中華人民共和国と北朝鮮は約39万のアメリカ軍兵士、66万の韓国軍兵士、2万9000の国連軍兵士を戦場から「抹消」したと推定している。(wikipedia)』という甚大な被害を受けながら、中国を恨まず日本を恨み、
1983年のソ連による大韓航空機撃墜事件では、乗員乗客合わせて269人の民間人が殺されたのに、ロシアを恨まず日本を恨み、
1987年の北朝鮮による大韓航空機爆破事件や、2010年3月の天安艦沈没事件、2010年11月の延坪島砲撃事件を経ても、北朝鮮を恨まず日本を恨み、
韓流ブームで日本の親韓が最高潮の中、李明博大統領は竹島に上陸して天皇陛下に「韓国に来たいのであれば、独立運動家を回って跪(ひざまづ)いて謝るべきだ」と言って日本の韓流ブームを終わらせておいて、中国共産党のトップには朝鮮戦争での謝罪を求めない。
朴槿恵大統領は外遊先の国々で日本を恨む発言を吹聴し、日本に対し「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない」と演説しておきながら、中国の抗日戦争勝利記念行事に笑顔で出席。
自称『恨』の国の韓国の世論は、他国からどれほど酷いことをされても、日本以外の国への恨みは続かない。
日韓併合時代に学校でハングルを教え、漢文の授業時間を減らして日本語の授業に充てると、韓国人から漢文を奪うのかと言って暴動を起こす程の中国への隷属。
(素朴な疑問なのですが、表音文字であるハングルでは漢(한)と韓(한)は同じ文字ですが、もしかすると、これが韓国人からハングルを奪い日本語を強制したというデマに繋がったのでしょうか。)
韓国に融和的だった西郷隆盛や伊藤博文も、韓国では憎まれているらしい。
【西郷隆盛の征韓論】
土屋元作の『嗚呼南洲先生』(大正15年・1926)から、西郷隆盛の征韓論について考えてみたいと思います。
『嗚呼南洲先生』(ああ南洲先生)の南洲というのは西郷隆盛の号で、当時の資料や関係者の聞き書きから、西郷隆盛を解説した本です。
明治維新後日本政府は、『このたび日本は王政を復古し、天皇中心の国家となったので、隣国と友好関係を結びたい』という内容の書を、外交使節に持たせて朝鮮に送りました。
すると朝鮮国王に届く以前の、倭館(日本人居留地)で受け取りを拒否され、使節は虚しく帰ります。
外交使節はこれを国辱として軍隊の派遣を要請しますが、西郷隆盛は「善隣外交を求めた国書の内容に反する」と言い、さらに「これを理由に相手を論難すれば、 使者は殺され戦争になる」として使者を諭そうとしますが、使者は「望むところ」と、喜んで死んで武力制圧の大義名分になろうと勇み立ちました。
これに対し西郷隆盛は、外交使節として自分が行くと言い出します。
しかし西郷隆盛の身を案じた弟の西郷従道は、兄の親友の大久保利通と共に、西郷隆盛を外交使節から外すことを画策しました。
これにより、明治天皇は外遊中の岩倉具視の意見を聞いてからにしようと言い、外遊から帰った岩倉具視らは、今は内治を優先として、西郷隆盛を外交使節から外してしまいます。
これを機に下野した西郷隆盛は、故郷の薩摩で畑を耕す日々を送ります。
し かし人斬り半次郎という異名のある、幕末に薩摩のスパイや西郷の護衛をしていた中村半次郎(この頃は桐野利秋)は、西洋列強に清国を取られる前に、朝鮮を 足がかりに清国に打って出、機先を制して西洋列強と戦おうという思想の持ち主で、征韓論の中心人物として、鹿児島で不平士族を集めていました。
そんなときに、明治政府は当時頻発していた不平士族の反乱を恐れ、鹿児島にあった名目上は明治政府の武器弾薬を薩摩から引き上げようとします。
しかしこの武器弾薬は、幕末の薩摩の開明君主島津斉彬が、薩摩の将来のためにと遺したものでした。
下級士族は独断でこれを奪い、政府側の役人を拷問して明治政府による西郷暗殺の計画を聞き出します。
彼らは全ての準備を整えてから西郷隆盛の元に行き、西郷に叱られるが止まる気配がありません。
しかたなく西郷はこの反乱の首謀者になる覚悟を決め、人斬り半次郎(桐野利秋)が総司令官として悲劇の最期に至ります。
これを読むと、西郷隆盛は征韓に乗り気ではなかったようです。
【伊藤博文】
明治36年(1903)に歴史家で評論家の山路愛山が伊藤博文を評したものが、『愛山文集』中に載ります。
国民が伊藤博文を好まない最も大きな理由として、『候が役に立つ人、経験ある人、学問ある人を用ゆることを知りて人才の品性に重きを置くの形跡なきこと是((これ))なり』と述べます。
さらに伊藤博文が若い頃の話として、幕末の英国留学の中で、今はまだ西洋と戦っても勝てないと悟り、米英仏蘭4国連合軍と長州藩との仲裁を決意し、井上馨と 共にいち早く帰国、しかし攘夷思想の高まる長州の藩論を止められず開戦するも、結局は敗戦、連合軍と和議を結ぶことに決しますが、各地に散らばる血気盛ん な将兵の説得に向かった使者たちが未だ戻らず、無為に時を過ごせば長州の城下は火の海になるとして、伊藤博文は着物と刀を脱ぎ捨てて漁船に乗り込み、船頭 二人と共に一番大きなイギリス船に乗り付け、単身休戦協定を結んで戻って来たという逸話を載せます。
愛山文集p373【一平民の朝鮮論】より抜粋。
これは、伊藤博文は朝鮮に恩を売っているが、絶対アダで返されるから考え直せ、という内容のものです。
『正直そうでコスく、馬鹿のようで疑り深い。人の恩は山ほどのことも右から左に忘れる。
その代わり怨みはいつまでも腹の中に隠して置いて金輪際決して忘れないというのが朝鮮人の持ち前だ。わっしは朝鮮人をそう見ぬいたのだ。
それだから、おめいさんが朝鮮へ出かけなすって、へんに朝鮮人に恩を着せなさる様子が見えたので、それがどうも心配でなりやせんでした。
聞きゃあおめいさんは彼方の天子の御台所を余計にしてやったり、日本人が朝鮮で悪いことをするのをいけねえと言って放逐したり、大そう朝鮮人を可愛いがって やりなさる様子だが。朝鮮人は恩を着せてありがたがらせることの出来る人間と思いなさりやあ。大きな間違いじゃあありますまいか。わっしは実にそれが心配でさあ。(昔の若衆神田の八五郎)(明治三十九年六月三日)』
昭和10年出版の、『最近の朝鮮及朝鮮人問題を語る』(小笠原省三著)という本によれば、日韓併合25年後には、朝鮮人の反日活動は下火になり、日本に寝返るもの多く、さらに内地への朝鮮人移民を制限するため、満州への移民を奨励している。この当時の日本国内には朝鮮人移民は50万人居て既に飽和状態とし、渡航制限を設けた後も、密航者を数に入れずに毎年4万人が日本に移民しているとある。
当時既に(第一次大戦よりも前)日本は移民先として朝鮮人に人気があり過ぎて、困った日本はその移民の矛先を満州に向けたということです。
【日韓併合時代の教育の実際】
幣原坦の『朝鮮教育論』(大正8・1819)によれば、著者は12年ぶりに朝鮮を訪れ、旧弊が改められた幾つかのことに満足します。p31
①不潔だった河川が綺麗になり、はげ山が植林されて緑が蘇ったこと。
②裁判が公平になり、賄賂が行われなくなったこと。
③生命・財産・名誉の安全が確保されたこと。
④インフラが整ってきたこと。
⑤交通機関が発達したこと。
⑥産業が勃興したこと。
⑦財政の基盤が確立し、内地の経済援助から独立できそうなこと。
⑧文明に対する保護が普及し、美術の保存が行き届いてきたこと。
日本が朝鮮に干渉しだした頃は、朝鮮人は皆日本を見下していたそうです。
しかし日本人が来て鴨緑江に立派な鉄橋を架けると、朝鮮人の見る目が変わってきたそうです。
『初 め日本人が鴨緑江の河床に橋柱を立てる時に、朝鮮人はこれを嘲笑して、「あの広い川に、何として橋が架けられようか。出来ないことを人力で試みようとする のは、無謀もまたはなはだしい。我らはただその失敗を見物していよう。」などと言っていた所が、だんだん事業の進行するに従って、立派な鉄橋が架けられる のみならず、出来上がってみると、その一部分が、僅々数人の手によって、徐々に回転せられ、上り下りの帆船を自由に通過せしめることとなったので、実に人の技工は天工を奪うものだと驚いた』p37
日本が朝鮮に干渉する以前は、朝鮮における教育とは漢学(中国の古典)を指し、実学(法律学・医学・経済学・工学等の実用的な学問)は省みられませんでした。
『さて日露戦争の頃までは、学問といえば、漢文と思っていた矢先、明治38年に、その漢文の復習の一部を割いて、日本語の学習に充てしめることとしたが、小学校の教師までこれに賛成しなかったものと見えて、ある日のこと、数百名の生徒が学部衙門((がもん))に押し寄せて、かねて貸与したる教科書を投げ出し、これを煽動する群衆も加わって、ここに一騒ぎが起こった。またその頃聘用((へいよう))した日本の教師に対しても、高等小学校の児童が迫って来て言うに、韓国の今日あるは、僅かに漢学が存在して居るためである。今かかる小学程度の学校から、すでに漢学の時間を減じて日本語を授けんとするは、これ我が国の少年の萌芽を摘み去って、他国の種子を植えるもので、生らはそのような授業を受けることができない。』p38
日本人が朝鮮人に実学を教えるには、まず学生に日本語を学ばせるのが早道との考えでしたが、朝鮮人の誤解は長く続いたそうです。
『また日本語を普通学校に課したのについては、長く誤解が拭われなかったものと見えて、日本人は我が国を取ろうとするのであって、それがために、まづ朝鮮語を変じて日本語に換えるのであるなどと言い、更に下流の人民に至っては、日本語を学ばしめるのは、我らを日本に送って、其の兵隊となし、又は労働者となすつもりであるというごとき、諸種の想像をたくましくして、人心を動揺せしめた』p43
朝鮮では初め、日本は中国よりも格下だと見て馬鹿にしていましたが、日清戦争で日本が勝ち、さらに日露戦争で日本が優勢になった頃には、日本人に対する見方が変わり、日本語を修得するのがブームになります。
『しかしながら、朝鮮の人が、競って国語((日本語))を習得するからと言って、内地((日本))の人は、朝鮮語を捨てて顧りみない訳にはいかない。ことに内地人教師は、教育を施すにあたって、生徒の性質を知り、父兄との意志の疎通をはかるの必要もあり、かたがた朝鮮語の研究を怠ってはならぬから、講習会において、最も多くの時間を朝鮮語に割かれてある。』p52
さらに朝鮮人教育に従事する内地人は、大正9年から朝鮮語の試験を受けることになったそうです。p171
日本語習得ブームの頃の逸話がいくつか載ります。
『また同地方((平安北道))のある女子は、国語((日本語))を習いたいために、男装して途中で迫害に逢わない用意を凝らし、遠路を馬に乗って普通学校に通っていたが、たまたまその普通学校において体格の検査を始めたので、母が驚いて学校に来て事情を告白し、特別の詮議を願ったというような話もある。』p65
朝鮮の普通学校の名称の由来は、初め国民学校と名づけましたが、朝鮮では『民』という語は『臣』に対する語で、官途につかない常民のことを指しました。
それでは貴族階級の師弟を含まない学校という意味になるので、普通教育を施す学校という意味で普通学校としたそうです。
普通学校では実学の中で最新の農業を教えましたが、それまで朝鮮で用いられていた種苗は日本の改良種に及ばず、日本の改良種はとても人気があったそうです。
大正五年度の調査では、朝鮮全土での米は在来種のもの70万町歩に対し、日本の改良種が45万町歩に達したそうです。
収穫高は明治43年に790万石であったのに対し、1250万石に増えたそうです。
その他の農作物も収穫高が軒並み増加しています。
『繭に至っては、もっとも著しく改良種の貢献をあらはし、在来種の三千七百石に対して、内地種が六万八千石という多額にのぼって居る。』p71
このように最新の農業知識が朝鮮全土に伝播していく中、(学生が官僚を目指していた伝統的なエリート意識から)学生に農作業をさせることに現地の反発があったそうです。
しかしやがて誤解は解けて行きます。
『かつてある地方で、実科的教育に不満を抱いて居た父兄があったが、その父兄が、月明かりの夜、ゆくりなく学校の付近を通りかかると、校長(内地人)は、今しも農業実習地に、自ら肥料を施して居る所であった。その父兄は、はからずもこの実情を目撃して、大いに感じたるもののごとく、さては内地人は、我々朝鮮人の子弟を労働者たるに終わらしめるのではなくして、衷心朝鮮の開発に心を砕いているのかと思いあたって、ただに疑心を氷解したるのみならず、これより学校を援助するに至ったという。総てがこの有様で、地方の学校教育が、社会に影響を及ぼし、産業に策励を与えつつあるのは事実である。』p75
当時の日本人教師はとても信頼されていたようです。
『学校から家庭へ良い種を分配し、又は家庭から学校にこれを要求し、その結果、産業の改良と収入の増加とを得たようなことは、至る所にこれを認められる。従って学校を目して、生計の助けとなる所であると思い、また生活上の種々な相談を持ちかけて来て、冠婚葬祭等に至るまで、学校をもって一中心とする所もあるようになった。かかる所に至って聞いて見ると、朝鮮の人は、正直にしてよく約束を守り、いかなることをせよと言っても、父兄も児童も小言を言わないと言っている。』p76
日本が干渉する以前の、朝鮮における衛生観念の無さは有名ですが、著者が旧韓国時代に状況を大日本市立衛生会に報告した中にこうあります。
『ある年、赤痢が京城((ソウル))に流行したが、患者のあった家の便所は、例によって溝につづき、その溝は、井戸の周囲を迂回して、他の家の便所に連なっている。しかしてその井戸で、洗濯もすれば食物も洗う。やがて、隣で哭声が聞こえる。』p77
中略
『右の病人・死人には何らの名医が薬を与えたでもない。ただムダングとて、巫女のようなものが禁厭をする。またバンスウとて、売卜者が占いをすることはある。巫女や売卜者の力をもって、病を治することを得るならばしあわせであるが、そうはゆかない。』p77
中略
『仮に水薬をこれに与えると、病気は寒気の祟りであるから、水薬などを用うべきでないと言って、頭を氷嚢で冷やすべき時にも、オンドルを炊いて、その室内に病人を呻吟せしめて居る。』p78
中略
『床上は、数年間も掃除したことがなく、破れたるゴザの中には床虫((南京虫の別名))が卵を産み、しかしてそこに出入りする朝鮮人は、室の隅へ平気で痰を吐きつける。この実際を経験したものでなければ、共に朝鮮の内情を語るに足らなかった。その上に上下を通じて風呂を持たない。ただ水をもって時々上体を拭うのみである。上流の人は綺麗であるけれど、中流以下の垢じみているのも、もっともである。しかして家の周囲をめぐる所の溝渠は、すなわち便所にほかならぬ。』p78
中略
『しかるに永い間の迷信で、不潔物を川に捨てることになったから、川は塵芥捨場となった。その塵芥の間を流れる水を利用するのであるから、衛生思想の進んでいなかった程度が知れる。』p79
この本の執筆当時、日本はソウルに総督府医院を置き、その他各道19箇所に慈恵医院を設け、癩病院も一箇所設けたそうです。
著者はこの医術・救療の恩恵が、『朝鮮人をして新政に満足せしめる一要因』(p79)だと言います。
大正元年からは巡回診療も始まったそうです。
朝鮮総督府医院付属医学講習所では、それまで朝鮮人医師の養成と、日本人・朝鮮人の助産婦・看護婦の養成を行なっていましたが。大正五年には京城(ソウル)医学専門学校と改称して医師の養成に特化し、助産婦・看護婦の養成は総督府医院と各慈恵医院で行うようになったそうです。
卒業した医師たちは各医院に就職させ、しばらく慣れたら公医として認められ、自家開業もできたそうです。
孤児や障害者に対する救済は、明治44年に済生院を設けたそうです。
衛生に関しては、既に京城・仁川・釜山・平壌等12箇所に水道を作り、目下(執筆当時)工事中の所も数カ所あるそうです。
その他の地方では、国庫からの補助金で衛生的な公共井戸を掘り、その数は大正4年末で約二百箇所あるそうです。
さらに塵芥の除去、糞尿の汲み取り、公共便所の設置、道路の掃除、撒き水、除雪、溝渠及び下水の浚渫を行い、ソウルから始めて全土に広がっているそうです。
その他衛生講話や春秋ニ季の衛生法を実施していますが、それでもなかなか理解してくれないそうです。
痘瘡は朝鮮の地方病と呼んでもいいほど一般的でしたが、種痘を行うことにより、この伝染病を駆除することに成功したそうです。
大正5年の調査では、この年に種痘を受けた朝鮮人は、男女合わせて128万人だったそうです。
入浴の習慣のなかった朝鮮人に、衛生の観点から新義州の学校では生徒に沐浴の必要を説き、学校に風呂を設けたところ、徐々にその習慣が受け入れられてきたそうです。
義州の寄宿舎で生徒が風呂を沸かす姿を見た著者は、僅かに一週間に一度の風呂に過ぎないが、これは衛生思想の進歩だと喜んでいます。
朝鮮人と日本人の共学については、当分は行儀と学力が日本人と同じ程度の児童であれば、学級児童の五分の一まで共学とするのが適当であろうと述べています。
医学校では既に朝鮮人と日本人は共学だったそうです。
当時朝鮮人と日本人との共学を実行していた京城女子高等普通学校では、朝鮮人と日本人とで裁縫と朝鮮語の時間を別にしなければならず、同じく共学の水原の農林学校では修身の時間に歩調がズレるが、さしたる不都合はないとあります。
朝鮮の貴族階級である両班は、普通学校における庶民と貴族階級の平等な教育に不満だったそうです。
『朝鮮人が新制の教育に対して不便を感じ不平の思いをなすゆえんのものがある。それは両班の家庭に起こる所のものである。けだしこれ新制教育は、総ての階級を通じて、子供の取り扱いを平等にするのであるから、常民の喜びに反して、両班は不満足を感ずる。何となれば、従来漢文の修習をもって学問となして来た家庭の者に対しても、新制教育では、一様に漢文の時間が少なくして、国語((日本語))が多く、その上にもっとも彼等の喜ばざる農業等をも平等に課するからである。』p105
中略
『このごとき両班の子供の多い普通学校においては、多少漢文の時間を増加する位のことは認許してやってよいと思われる。』p105
日本が日露戦争に勝利し、朝鮮にインフラが整い出してから、朝鮮人の日本に対する見方は変わりましたが、それでもなお強い不満が2つあったそうです。
一つは日本の税制です。
それまでの朝鮮では、税金は個人に課すものではなく地域に課すものだったので、税金の払えない者は別の者が負担するのが普通だったようです。
さらに身分に応じて税金の多寡が違ったので、身分の低い者は少ない税金で済みました。
しかし日本では、税金は(貴族・平民の)身分に関わらず、個人に割り当てられるものなので、苦痛に感じたようです。
二つ目は火葬の奨励と墓地の扱いでした。
朝鮮人は良い地相に墓地を作ることにこだわりがあったので、鉄道の敷設等で墓地を共同墓地に移設されることになり、朝鮮人には打撃だったそうです。
さらに従来の土葬では伝染病が防げないという理由で土葬を禁じましたが、朝鮮人の間には天然痘の死者は蘇るという迷信があり、久しくこれを土中に葬らず、墓所の上に晒していたそうです。p109
当時の朝鮮児童における長所と短所が載ります。
長所
『開城第一公立普通学校における「朝鮮児童性向調査」
①記憶力が強く、②模倣心に富み、③技能に秀で、④辞令に巧妙、⑤師弟の情宜に富み、⑥友人間の情愛が厚く、⑦祖先を尊敬し、⑧従順、⑨団結力に強く、⑩幼少の間は敏捷、⑪淫猥なる言行をなさぬ。』p149
『②模倣心に富み』の説明として、中国から伝わった文物に対し、全く朝鮮独自のものを加えない所は日本と違うと述べています。
『全く己を捨てて彼を模するに至り、思想上には朝鮮の特徴を失い』p155
『④辞令に巧妙』の説明として、朝鮮語はほとんど記述には用いられて来なかったが(漢文による記述ばかり)、話し言葉としての朝鮮語での弁舌は朝鮮人の才能に数えられ、辻講談などは実に流暢で抑揚の妙を極めたものであると褒めています。
著者は朝鮮人が弁舌を尊ぶ証左として、『力の強い子供を欲しいと思わないで、言葉の上手な子供を欲しいと思え』という諺と、『肉は噛みしめて味があり、言葉は話して見て味がある』という諺を載せます。
著者は朝鮮少年の美風である、『従順にして長者を尊敬する』例として、京城高等普通学校長長岡元輔の「鮮人子弟の美風」からの引用を載せます。
『もし登校の際、道に教師に遭はば、たとい授業の時間に遅れる心配はあっても、教師を追い越そうとするものはない。やむを得ず教師が立ち止まって、先に行くべきことを命ずると、生徒は最敬礼をした後に、道の一隅をたどって数町をかけぬけ、遙かに隔たるのを待って、始めて意を安んずるもののごとくに見える。生徒が教師の家に訪問に来ても、なかなか椅子に就かない。ためしに茶を与うれば、うやうやしく茶碗を取り上げ、後方に向かって静かに喫する。生徒に過失があって父兄を招く時のごときは、父兄は注意を与えられたことを感謝して、数週間その子弟を家庭に謹慎せしめ、再び教師に心を煩わせないことを誓わせる。そのごとき美点は、むしろ内地((日本))にも移したい位である。』p150
『⑪淫猥なる言行をなさぬ』の説明として、朝鮮人の早婚の風習によるのだろうとしています。
短所
『開城第一公立普通学校における「朝鮮児童性向調査」
①推理力が乏しく、②思慮浅薄にして周到でなく、③迷信が多く、④貯蓄心に乏しく、⑤廉恥心が少なく、⑥感情が濃厚に過ぎ、⑦嫉妬心があり、⑧猜疑心も多く、⑨美的情念欠乏し、⑩不潔、⑪意志薄弱、⑫依頼心が強く、⑬忍耐力が乏しく、⑭無責任、⑮働くことを厭い、⑯公徳心欠乏し、⑰秩序を重んじなく、⑱不快活、⑲礼儀をおろそかにし、⑳無邪気でない』p157
『①推理力が乏しく』の説明として、『推理・応用の才が発達していない』と延べ『支那に従属して、何ら朝鮮的独創思想と見なすものの発達を見ず』(p158)とあります。
『⑤廉恥心が少なく』の説明として、朝鮮においては試験の際のカンニングは珍しいことではないと述べ、李朝中期の李晬光の『芝峰類説』から引用して、科挙のときに『換券』と称して答案を交換する行為が盛んであったことを述べます。
また朝鮮人の伝統では、窃盗もさしたる罪ではなかったそうです。
著者は朝鮮人の人情が軽薄であることについて考察しています。
『朝鮮人が勢いのある者に蟻付して、勢いのなくなった者に冷酷なことを見ると、軽薄なところもあるようだが、あるいはこれ、例の事大主義かもしれない。』p162
著者は泰川郡の私立学校での例を引き、当時の日本人教師が尊敬されていたことを述べます。
『生徒は勿論、村民にまでも非常に信頼せられ、村のこと細大となく解決を求められるようになった。しかるに思いがけず世の中が不景気となって、税金は集まらず、従って棒給も数ヶ月にわたって支払われなくなった。これを聞いた内地人があい集まって富裕なる村にこの教師を移さむとした。しかるに村内の老若男女は、かようなよい日本教師を他に取られてはならぬとて、数百の朝鮮人が教師の家の周囲に集まり、あるいは郡庁に押しかけて混雑した。そこでこの教師は、一同に向かって、更に長くこの村のために尽くさんことを告げて、ようやく事なきを得たという。これは大正四年のことで、この教師の就職後、僅かに三箇年有余に過ぎない時の事であった。』p172
朝鮮人教師の始まりは明治38年7月からだそうで、当時は間に合わせの感が強かったものの、近年は朝鮮人教師のレベルが上がり、玉石混交とはいえ、日本語の発音以外は日本人教師と遜色がない教師もいるということです。p181
当時朝鮮人教師の採用から十年経ち、著者は最近(と言っても当時)朝鮮人の女教師が出てきたことを喜んでいます。
『最近の十年間に、女子が教育社会に猛進し来たり、しかもそれが、男子に比して優るとも劣らざる状況を見ては、驚かざらんと欲するもあたわぬ。熊川の普通学校を視察した時のごときも、また公立となって間がない所であるにかかわらず、教師の中には、二名の朝鮮女教員も加わって、男教員と共に平気で応接すること、毫(ごう)も内地の学校におけると異ならなかったが、これらは最もいちじるしい時勢の変化である。』p184
朝鮮女子の知能についての考察が載ります。
『朝鮮の女子は、割合に知識の発達が早い。その証拠は、大正四年四月、右付属女子普通学校における新入学児童の調査でも、これを知ることが出来る。この調査によれば、文字を知り得る者(一字たりとも)が、六割八分に上り、全く文字を知らない者は、三割二分あるのみである。これを内地の小学校新入学児童が、多く文字を知らないのに思い較べて見れば、全く内地に見るあたわざる好成績である。』p191
中略
『幼時における知識の発達が、内地の児童に比して、優るとも劣らない一証とも考える。』p192
中略
『朝鮮人の中から、近年内地人に譲らざる女子教育家を生ずるに至ったのは、彼等のためにも賀すべきことである。すなわち開城の金貞恵と称する一寡婦は、我が明治三十九年、松桂学堂という学校を興して、女子教育の端緒を開いたが、一般社会が未だ女子教育に耳を傾けない時代であったがために、生徒はほとんど無かったにもかかわらず、不撓不屈の精神をもって学校を経営し、自己の私財を投じてその維持をはかり、だんだん故旧・知己を説いて女子教育の必要なるゆえんを知らしめ、ようやく八十余名の生徒を得たから、明治四十三年に貞和女学校と改称し、学部大臣の認可を得て、ますますその内容を改善し、大正四年には、既に百余名の生徒を有するに至った。』p192
朝鮮女子が逆子を生むことが多い理由は、伝統的な韓服にあるのではないかと述べます。
『京城女子高等普通学校教諭西沢勇志智氏の発表によれば、朝鮮女子の胸囲の発育不良なのは、衣服の緊縛のはなはだしきに依るので、この緊縛せられた胸は、必ずや内蔵を変形しつつあるに相違なく、しかしていたずらに腹部が放任されている結果として、逆子を生む者が多いという。しかして、朝鮮の女子は、特に脊柱の屈曲がいちじるしい。』p203
朝鮮人は成長すると運動する習慣がなく、普通学校では日本と同じく体育の授業により体格の向上を目指したそうです。
『女子はしばらく差し置き、男子は①体格薄弱の者が朝鮮人に多い。②脊柱も在鮮内地人男子が最も正しいから、朝鮮人はこれと比すべくもない。③しかるに視力に至っては、朝鮮人が最も良好であって、内地人の企及すべからざる所である。④トラホームもまたしかりで、朝鮮人の方が遙かに少ない。⑤虫歯に至っては、内地人は朝鮮人に比して、四倍ないし五倍の多数に上っている。』p203
朝鮮人の学力の日本人に劣らないことが述べられます。
『校長の依嘱によって、生徒一同に話をした。それから三時間目に、綴り方の時間があったとかで、第四学年の受け持ち教師が、生徒にその談話を記憶のまま綴らしめたが、これを見ると、誠に想像以上によく出来ていた。すなわち談話を十分に聞き取っていること、およびこれをよく書きこなしていること、並びに字体の鮮明なこと等において、我が尋常第四学年生以上であることを知り得た。』
普通学校の目的が載ります。
『大多数の朝鮮人は、普通学校の卒業をもって、まず教育を完了する次第であるから、卒業の後ち遊民を作るはその本旨でない。ゆえに生業を重んじ勤労を好むの習慣を養成して、及ぶ限り職業を授与し、殊に他人の力に依頼せしめずして、自営に重きを置かしむるをもって要とする。』p145
朝鮮人は独自の物を作り出すことは苦手とするが、技能を修得する才能があり、学生に写本をさせると『日本人の大人が書いたものより、よほど美事に出来る』とし、朝鮮人女子は『細かい織物に上手であるのは、彼等の得意として誇るところである』また朝鮮人の演説の才能を褒め、軍楽を習わせたときは、二~三ヶ月習わせただけで、日本の軍楽隊の奏楽と異ならないほど進歩が早いと驚いています。p316~317
朝鮮人の語学の才能についての考察が載ります。
『発表((演説))が巧みであるから、語学の稽古を始めると、すぐ人と話してみる。つまり臆面もなく喋る風がある。この点において日本の学生とやや違っている。日本の学生は、なるべく話をしない癖があって、英語を習う者が、たとい話し得られても黙っているようなぐあいであるが、朝鮮人は反対に見える。その代わりに書物を精読することは、余り好まぬようである。そこで話すことはだんだん進んでゆくけれども、研究する方ではない。』p317
朝鮮人の男性は、冠を着けると成人と認められるので、少しでも早く冠を付けることを求めました。
そして大抵の場合、冠をつけるのと婚姻は同時に行われるので、朝鮮人の早婚が問題視されています。
『大抵は費用がかかるから、冠と婚とを同時に行う。そこで概して早婚である。それがまた学生の身体を弱くするので、しばらくは激しき運動にも耐えないようになる者もいる。また女子は、なるべく小さく若いのが好まれる。』p324
朝鮮人の道徳について述べられます。
『儒教が日本に入ったのと朝鮮に入ったのとは、全く様子がちがっている。日本人は多くその精神を採っているが、朝鮮ではその形式方向に傾いている。朝鮮人が儒教の形式を守っていることは驚くばかりである。』p324
中略
『しかるに儒教の精神的方面は、どっちかといえば閑却されている。義理とか廉恥とかは、あまり重んぜられていない。しかして虚偽とか賄賂とか窃盗とかいうような不徳は、社会の各方面に公然と現れて、あえて怪しまれていない。社会的制裁は薄弱である。』p324
中略
『家庭においてもづるいことを奨励しているのかと思われる程のことがある。』p325
中略
『あるとき、小宅の隅に石を買い集めて置いたが、隣の親は、その子にこれを盗ましめる。ふと家人が見ていたので、子供は驚いて帰ろうとすると、父はなぜ取って来ないかと叱る。ついに子供は泣き出した。憐れむべきは子供である。元来朝鮮人間には、自他の所有の区別が少ない。我が物も他人の物も、大なる差がない。一時他人の物を取ったとて、返せばそれで済むので、あえて咎めないという風である。彼等の生涯は非常に浮き沈みがある。今日栄えて居るかと思えば、明日は落ちぶれる。』p325
過去優れた文物は朝鮮よりもたらされたとして、論語・千字文を伝えた王仁や、法隆寺の壁画を書いた曇徴、有田焼、薩摩焼、萩焼等の焼き物、医術、機織りにいたるまで、枚挙にいとまがないと説きます。
古代には朝鮮から仏教が伝わり、足利時代には大蔵経を朝鮮に求めたことを述べます。p26・p331
新羅の善徳女王が建てた瞻星台(天文台)や、昔の朝鮮の優れていたことを語ります。p337
『朝鮮教育論』の緒言にこうあります。
『日韓邦((くに))を合して八星霜。一千余万の白衣の民は、他の地に見るがごとき劣等人種としての冷遇を受けず、かえって内地人より同胞として歓待せられることとなった』p1
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