中国の反日感情について
昭和10年刊行の、【一支那青年より日本帝国の青年に与ふ : 日支親善の根本解決は何か】より抜萃。
『貴国人((日本人))の店へ買物に行く、どちらが主人か客かは分らぬほど横柄である。殊に支那人へ対して、その態度が傲岸である。今に「チャンコロ」と呼び、堂々たる公会の席上などで、支那人は臭いと、真向から浴せかけて、同席をもいさぎよしとしない。何かの問題には、その是非を差し置いて、頭から支那人のくせにと連発する。』p90
日清戦争の後の日露戦争前後までは、このような中国人差別はなく(この本によれば、日露戦争後も『日本本土』では中国人差別は少なかったそうです。)、日本人は中国人に対して礼儀を持って接していたそうです。
日本はアジアの開放のために戦ったという人がいますが、私は第二次大戦敗戦までの日本は、日本の国益のために動いていたと思います。
台湾や韓国の併合も、満州の建設もそうです。
これらの地域で社会制度を改革し、高度なインフラを整備して近代化したのは日本の都合です。
でも戦争を始めるには大義名分が必要なので、大東亜共栄圏や、八紘一宇の理想を掲げたんだと思います。
どんな宗教でもそうですが、末端の信者というか、当時の青少年たちや、単純な大人はその理想を信じていました。
しかし軍の上層部は、明治以降薩長の軍閥が互いを牽制し、ときに協力しましたが、彼等の倫理観は武士のそれなので、とくに第二次大戦では、軍人だけではなく日本国民全体に武士の倫理を強要しました。
当時の純粋な人は、本気で東アジア共同体(大東亜共栄圏)、東洋の西洋列強による植民地支配からの開放、世界は一つ(八紘一宇)、人類は皆兄弟、とか本気で信じていたと思いますが…
私は当時の権力者はそれほど単純ではなかったと思います。
しかし台湾は、その日本の都合で行われた近代化を評価してくれて、日本の津波には200億円以上の義援金を贈ってくれました。
韓国の場合は、日韓併合以前には文明的な生活は李氏朝鮮の貴族階級に独占され、一般大衆は乞食のような文明レベルの生活を余儀なくされていましたが、それでも彼等は幸せだったのかもしれません。
韓国が仮に他国から介入されず、自然な発展をしていたなら、今の北朝鮮のような国になっていたと思います。
貴族階級と奴隷階級の二極化、李氏朝鮮の末期と今の北朝鮮はその点ですごくよく似ています。
韓国の反日感情は異常(日本以外の国にどれほど酷いことをされても恨みが続かず、常に日本だけを恨む点)ですが、中国の反日感情はまだ理解できます。
日本は第一次大戦の時、日英同盟を理由として中国でのドイツの権益を奪うために、中華民国に対華21ヶ条要求を突きつけました。
対華21ヶ条とは、1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣が中華民国総統の袁世凱に要求したもので、内容はドイツの得ていた権益の日本への移行だけではなく、中国の政治・経済・行政・軍事・教育等に、日本の監督官を置くことが含まれていました。
しかし袁世凱は列国に圧力をかけてもらい、中国の政治・経済・行政・軍事・教育等に日本の監督官を置くことだけは回避します。
中国人はこれを国辱として、このとき以来日本を激しく憎むようになります。
中国の学校での反日教育も、共産党が政権を握る以前、既に対華21ヶ条要求直後から始まります。
当時の本をいくつか読んで思うに、元々日本は朝鮮民族を過大評価していて、初め愛情をかけましたが、後に幻滅し、ついに朝鮮の政治・経済・行政・軍事・教育等、強権をもって日本が無理やり近代化させることにしました。
その後中国では、(李氏朝鮮末期の)朝鮮人と(文化大革命以前の)中国人の民族性の違いを考慮せずに、同じ方法を中国に用いようとして失敗します。
中国人には元々国家観はなく、国民に優しい支配者であれば満足したのに、対華21ヶ条要求までは、中国は日清戦争敗北後もそこまで強い反日感情を(清朝はともかく)民衆は持っていなかったのに、愛情をかけずに強権を用いたのが(そしてそれを反日宣伝に利用されたのが)現在まで続く禍根だと思います。
将来的に中国共産党が自壊し、嘘を上乗せした反日プロパガンダの嘘の部分を民衆が周知するようになれば、ここまで強い反日感情はなくなり、日本のポップカルチャーの魅力と相殺できるか、日本のポップカルチャーの魅力が少し負ける程度の、弱い反日感情に落ち着くのではないかと思います。
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