【千里駒後日譚】(坂本龍馬の妻の証言)
明治32年、坂本龍馬の妻だった楢崎龍(通称お龍さん)宅に、漢学者川田雪山が訪ね、お龍さん本人に取材した土陽新聞の連載記事、『千里駒後日譚』というものがあります。
それによると、石川誠之助(中岡慎太郎)は陸援隊が出来る前は龍馬の海援隊に居り、『石川さんは初は一処に海援隊でした。面白い人で、私を見るとお龍さん僕の顔に何か附いて居ますかなどゝ、何時もてがうて居りました。』ということです。
『てがう』というのは土佐の方言で、『からかう』という意味だそうです。
お龍さん自身は京都の生まれです。
中岡慎太郎は愉快な人だったのですね。
海援隊は北海道に開拓に行く予定で、お龍さんも北海道の言葉を手帳に書きつけて稽古していたそうです。
『北海道へ行く固めの盃にと一晩酒を呑みましたが、誰れが言出したか一ツ祇園を素見さうと、大利さんは殿様に化けて籠にのり、白峰さんがお小姓役、龍馬は八卦見、ソレから私が御腰元で、祇園の茶屋へ押し掛け、コレは殿様だから大事にして下さいと云ふと、女中も三助もお内儀さんも皆んな出て来てヘイ〳〵とお辞儀をする。阪本は八卦見だから手を出せ筋を見てやると云ふと、私にも〳〵と皆な手の掌を出すのを何だとか彼だとかあてすつぽふに云つて居りましたが、能く当る〳〵と喜んで居りました。』
福沢諭吉にしてもそうですが、幕末の人は遊び心が旺盛ですね。
龍馬達は天誅組と一緒に、京都の大仏のお寺に隠れていたそうです。
家事に手が届かないので、お龍さんの母が手伝いに雇われたそうです。
この頃大仏の和尚さんが仲人になり、お龍さんと龍馬が結婚したそうです。
(勢戸屋のお登勢の仲人、または西郷隆盛の仲人という説は誤りだそうです。)
お龍さんは皆と一緒に大仏のお寺に居るわけにいかないから、七条の扇岩という宿屋へ預けられていたそうです。
元治元年六月一日の夕方、龍馬が扇岩へ来て、明日江戸に立つとお龍さんに伝えに来たそうです。
二人は酒を飲み、翌朝龍馬は出立します。
そして五日の朝、大仏のお寺を会津藩の連中が襲撃したそうです。
『元山さんは其場で討死し、望月さんは切り抜けて土佐屋敷へ走り込まんとしたが門が閉て這入れず、引返して長州屋敷へ行かうとする処を大勢後から追ツ掛けて、何でも横腹を槍で突かれたのです。私は母の事が気にかゝり扇岩を飛出して行つて見ると、望月さんの死骸へは蓆をきせてありました、私は頭の髪か手足の指か何か一ツ形見に切て置きたいと思ひましたが番人が一パイ居つて取れないのです。』
お龍の母も捕らえられましたが、女だというので釈放されたそうです。
『ソレから龍馬も江戸へ行つたけれど道中で万一の事がありはすまいかと日々心配して居りますと、八月一日にヒヨツコリ帰て来ましたので此の騒動を話すと兎も角も危いからと私の妹の君江は神戸の勝(当時海軍奉行として神戸に滞在せり)さんへ弟の太一郎は金蔵寺へ、母は杉坂の尼寺へ、それぞれ預けて私は伏見の寺田屋(千里駒に勢戸屋とあるは誤り也)へ行つたのです。』
『此家のお登勢と云ふのが中々シツかりした女で、私が行くと襷や前垂れやを早やチヤンと揃てあつて、仕馴れまいが暫らく辛棒しなさいと、私はお三やら娘分やらで家内同様にして居りました。処が此儘では会津の奴等に見付かるからと、お登勢が私の眉を剃つて呉れて、これで大分人相が変つたから大丈夫と云つて笑ひました。』
お登勢さん人間が出来てますね。
お龍さんは身元を隠すため、名前をお春に変えました。
慶応二年正月十九日の晩、長州から帰った龍馬は、客人の長州人三吉慎蔵をお龍さんに預け、自身は他の三人と、これから薩摩屋敷に入るということでした。
『三吉丈は連れて行けぬからお前が預つて匿して置けと云ひますから、何故連れて行けぬと聞くと、薩摩と長州とは近頃漸つとの事で仲直りはしたが猶ほ互に疑ひ合つて居るから、三吉は内々で薩摩の様子を探りに来たのだと云ふ。ソンナラ私が預ります、が随分新撰組が往来する様ですから、万一三吉さんに怪我が有つたら如何しませう、私が死ねば宜いですかと云ふと、お前が死んでさへ呉れゝば長州へ申訳は立つと云ひますから、では確かに預りますと二階の秘密室(寺田屋にては浪人を隠す為め秘密室秘密梯子等を特に設けありし也)へ三吉さんを這入らせ、坂本から聞きますれば御大切の御身体ですから、随分御用心なさつて万一の時にはコヽから御逃げなさい、と後ろの椽の抜け道を教えて置きました。』
お龍さんは気丈な方ですね。
その後龍馬が帰って来た夜、風呂に入っていたお龍さんが龍馬に敵の襲来を告げる有名な場面が、本人の口から語られます。
『私は一寸と一杯と風呂に這入つて居りました。処がコツン〳〵と云ふ音が聞えるので変だと思つて居る間もなく風呂の外から私の肩先へ槍を突出しましたから、私は片手で槍を捕え、態と二階へ聞える様な大声で、女が風呂へ入つて居るに槍で突くなんか誰れだ、誰れだと云ふと、静にせい騒ぐと殺すぞと云ふから、お前さん等に殺される私ぢやないと庭へ飛下りて濡れ肌に袷を一枚引つかけ、帯をする間もないから跣足で駆け出すと、陣笠を被つて槍を持つた男が矢庭に私の胸倉を取て二階に客が有るに相違ない、名を云つてみよと云ひますから、薩摩の西郷小次郎さんと一人は今方来たので名は知らぬと出鱈目を云ひますと又、裏から二階へ上れるかと云ふから、表から御上りなさいと云へば、ウム能く教へたとか何とか云つて表へバタ〴〵と行きました。私は裏の秘密梯子から馳け上つて、捕り手が来ました、御油断はなりませぬと云ふと、よし心得たと三吉さんは起き上つて手早く袴をつけ槍を取つて身構へ、龍馬は小松(帯刀)さんが呉れた六連発の短銃を握つて待ち構へましたが』
『三発やると初めに私を捕へた男が持つた槍をトンと落して斃れました。私は嬉しかつた……。もう斯うなつては恐くも何ともなく、足の踏場を自由にせねば二人が働けまいと思つたから、三枚の障子を二枚まで外づしかけると龍馬が、まごまごするな邪魔になる坐つて見て居れと云ひますから私はヘイと云つて龍馬の側へ蹲んで見て居りました。』
お龍さんを最初に捕らえた男が龍馬に撃たれると、お龍さんいわく『私は嬉しかつた……。』という部分が、お龍さんの個性ですね。
『龍馬は又一発響かせて一人倒しましたが丸は五ツしか込て無かつたので後一発となつたのです。すると龍馬が、さア丸が尽きさうなぞと、独語て居りますから私は床の間へ走つて行つて、弾箱を持ち出して来たがなかなか込める暇が無いので、私はハア〳〵思つて居ると、四発目に中つた奴が皆んなへ倒れかゝつて五人六人一トなだれとなつて下へバタ〳〵転り落ちました、龍馬はハヽヽヽと笑つて卑怯な奴だ此方から押しかけて、斬つて斬つて斬り捲くらうかと云ふと三吉さんが、相手になるは無益、引くなら今が引き時だと云ふ。そんなら引かうと二人は後の椽から飛出しました。私もヤレ安心と庭へ降りよふと欄干へ手を掛けると鮮血がペツたり手へ附いたから、誰れかやられたなと思ひ庭にあつた下駄を一足持つて逃げたのです。』
『もう大丈夫と思つて居る矢先に、町の角で五六人の捕手にハタと行遭つて何者だと云ふから私はトボケた顔をして、今寺田屋の前を通ると浪人が斬つたとか突たとか大騒ぎ、私や恐くつて逃げて来たあなたも行つて御覧なさいと云ふと、ウム人違ひぢやつたと放しましたから、ヤレ嬉しやとは思つたが又追ツかけて来はせぬかと悟られぬ様に下駄をカラ〳〵と鳴らして、懐ろ手でソロ〳〵と行きました。早や夜明け方となつて東はほんのりと白んで、空を見ると二十三日の片はれ月が傾ひて、雲はヒラ〳〵と靉靆き、四面は茫乎して居るのです。私は月を見もつて行きました。丁度芝居の様ですねえ……。』
その後お龍さんは、薩摩屋敷で龍馬と合流します。
『私は嬉しくつて飛出して行くと龍馬が、お前は早や来て居るかと云ひますから、欄干に血が附て居したがあなたやられはしませぬかと問へば、ウムやられたと手を出す。寄て見ると左の拇指と人指し指とを創て居りました──。椽から飛出した時暗がりから不意に斫り付けたのを短銃で受止めたが切先きが余つて創ひたのです──。つゞまり人指し指は自由がきかなくなつて仕舞ひました。』
『此の屋敷で一月一杯居りましたが、京都の西郷さんから京の屋敷へ来いと兵隊を迎へに越して呉れましたから、丁度晦日に伏見を立つて京都の薩邸へ這入りました。此時龍馬は創を負て居るからと籠にのり、私は男粧して兵隊の中に雑つて行きました……、笑止かつたですよ。大山さんが袷と袴を世話して呉れましたが、私は猶ほ帯が無いがと云ひますと白峰さんが、白縮緬の兵児帯へ血の一杯附いたのを持つて来て、友達が切腹の折り結んで居たのだがマア我慢していきなさいと云ふ。ソレを巻きつけ髷をコワして浪人の様に結び其上へ頬冠りをして鉄砲を担ひで行きました。』
男装のとき、切腹の血の付いた帯を借りて、『笑止(おかし)かつたですよ』というのがお龍さんらしいです。
お龍さんは西郷から今回の手柄を褒められ、その後龍馬と共に薩摩に行くことになります。
『或日私が山へ登つて見たいと云ふと、言ひ出したら聞かぬ奴だから連れて行つてやらうと龍馬が云ひまして、山は御飯は禁物だからコレを弁当にと小松さんがカステイラの切つたのを呉れました。此の絵(千里駒のお龍逆鋒を抜く図)は違つて居ます。鋒の上は天狗の面を二ツ鋳付けて一尺回りもありませうか、から金で中は空で軽あるいのです。私が抜ひて見度う御座いますと云ふと、龍馬はやつて見よ六ヶ敷けりや手伝つてやると笑つて居りましたが田中さんは色を青くして、ソソレを抜けば火が降ると昔から言つてあるどうぞ罷めて下さいと云ふ、私は何に大丈夫と鉾の根の石をサツ〳〵と掻のけ、一息に引抜いて倒した儘で帰りました。』
龍馬もお龍さんもおおらかですね。
お龍さんが龍馬という人間を描写しています。
『眉の上には大きな痣があつて其外にも黒子がポツ〳〵あるので、写真は奇麗に取れんのですヨ。背には黒毛が一杯生えて居まして何時も石鹸で洗ふのでした。』
『衣物なども余り奇麗にすると気嫌が悪るいので、自分も垢づいた物ばかり着て居りました。一日縦縞の単物をきて出て戻りには白飛白の立派なのを着て来ましたから誰れのと問ふたら、己れの単衣を誰れか取つて行つたから、おれは西郷から此の衣物を貰つて来たと云ひました。長崎の小曽根で一日宿の主人等と花見に行く時お内儀さんが、今日は美いのを御召しなさいと云つたけれど、私は平生着の次ぎのを被て行きましたが、龍馬が後で聞いてヨカツタ〳〵と云つて喜びました。十人行けば十人の中で何処の誰れやら分らぬ様にして居れと常に私に言ひ聞かせ、人に軽蔑せられると云へば、夫れが面白いじや無いかと云つて居りました。』
『一戦争済めば山中へ這入つて安楽に暮す積り、役人になるのはおれは否ぢや、退屈な時聞きたいから月琴でも習つて置けとお師匠さんを探して呉れましたので、私は暫く稽古しましたが、あなたに聞ひて頂くならモ少し幼少い時分から稽古して置けば宜かつたと大笑でした。』
龍馬とお姉さんは仲が良かったそうです。
『龍馬が常に云つていました、おれは若い時親に死別れてからはお乙女姉さんの世話になつて成長つたので親の恩より姉さんの恩が大いつてね。大変姉さんと中好しで、何時でも長い〳〵手紙を寄しましたが兄さんには匿して書くので、龍馬に遣る手紙を色男かなんかにやる様におれに匿さいでも宜からうと怒つて居たさうです。伏見で私が働いた事を国へ言つて遣ると云つて居ましたから、ソウしてはあなたが大変私にのろい様に見えるからお廃止なさいと止めました。姉さんはお仁王と云ふ綽名があつて元気な人でしたが私には親切にしてくれました。(龍馬伝には「お乙女怒って彼女を離婚す」とあれど是れ亦誤りなり、お龍氏が龍馬に死別れて以来の経歴は予委しく之を聴きたれど龍馬の事に関係なければ今姑らく略しぬ。されど這の女丈夫が三十年間如何にして日月を過せしかは諸君の知らんと欲する所なるべし、故に予は他日を期し端を改めて叙述する所あらんと欲す。請ふ諒せよ)私が土佐を出る時も一処に近所へ暇乞ひに行つたり、船迄見送つて呉れたのはお乙女姉さんでした。』
龍馬関係の解説書やテレビの歴史クイズ番組なんかで、龍馬の姉乙女とお龍さんは仲が悪かったというのをたまに見かけますが、それはこの資料を見落としているのでしょうか。
『私の名ですか、矢ツ張り龍馬の龍の字です。初めて逢つた時分お前の名のりよふは何う云ふ字かと問ひますから斯く〳〵と書いて見せると、夫れではおれの名と一緒だと笑つて居りました。』
資料によってはお良になっていたりしますからね。
次はお龍さん自身の出自の話です。
『私の父は楢崎将作(千里駒に将監とあるは誤也)と云ふのです。青蓮院様の侍医でしたが漢学は貫名海岸先生に習つたのであの梁川星巌や其妻の紅蘭も同門でした。また頼三樹さんや池内大角(吉田松陰らと倶に斬らる)などゝも親密で私が幼少い時分には能う往来きして居ました。』
『長岡健吉(今井順静の変名)は龍馬が大変可愛がつて薩摩へも連れて行きましたが、朝寝をしてどうもならぬのです。処が犬が大嫌でしたから蒲団を被つて寝て居る時には、犬を枕元へ坐らせて置て揺り起すと、ヘイと云つて起き上り犬を見れば直ぐ又蒲団を引ツ被つて姉さん(海援隊の者はお龍を姉さんと呼び居たり)は悪るい事をする、なぞ云つて居りました。龍馬が長岡の様なキツイ顔付で犬が恐ろしいとは不思議ぢやないかと笑つて居りましたが、明治の初め東京で死んだのです。』
お龍さんはいたずら好きですね。
『橋本久太夫は元幕府の軍艦へ乗つて居たので、大酒呑でしたが舟の乗り方は中々上手でした。大坂沖で舟の中で酒場喧嘩をし出来し、海へ飛び込んで逃げて来て抱へて呉れと云ふから家来にしたのです。後に薩摩から長崎へ廻航の時甑灘で大浪に逢ひ、船は揺れる、人は酔ふ、仕方が無いのです。私はテーブルに向ひ腰をかけ月琴を弾いて居ると、龍馬は側でニコ〳〵笑ひながら聴いて居りました。暫くして便所へ行かうと思つたが船が揺つて歩けぬから匍匐う様にして行つて見ると、皆んな酔つて唸つて居るに久太夫が独り五体を帆穡へ縛り付け帆を捲ひたり張つたりして働いて居りましたが、私を見るより、奥さんでさへ起きて居るぞ貴様等恥を知れ〳〵と大声で呼はつて居りました。天草港へ着きかけると皆な起きて来て衣物を着換へるやら顔を洗ふやら大騒ぎ、久太夫は独り蹲んで見て居りましたが私が、港が見えだすとソンナ真似をしてお前等何だ酔つて寝て居た癖に、と云ふと橋本がソラ見よ皆来て誤れ〳〵、と云つて、此奴は一番酔つた奴、彼奴は二番三番と一々指さすと皆平伏して真とに悪うご座りましたと誤つて居りました。ホヽ私悪いことをしたもんですネー。すると龍馬が出て来て、ソンナ事をするな酔ふ者は酔ふ酔はぬ者は酔はぬ性分だから仕方が無いと笑つて居りました。』
お龍さんも龍馬も、怖れるものが無さそうですね。
『武市(半平太)さんには一度逢ひました。江戸から国へ帰る時京都へ立寄つて龍馬に一緒に帰らぬかと云ふから、今お国では誰れでも彼れでも捕へて斬つて居るから、帰つたら必ずヤラれると留めたけれども、武市さんは無理に帰つて、果してあの通り割腹する様になりました。龍馬が、おれも武市と一緒に帰つて居たもんなら命は無いのぢあつた。武市は正直過ぎるからヤられた惜しい事をした、と云つて溜息をして話しました。』
『海援隊の積立金ですが、アレは管野や白峰や中島やが洋行して使つて仕舞つたのです。龍馬が斬られた時は私は長州の伊東助太夫の家に居りました。丁度十一月の十六日の夜私は龍馬が、全身朱に染んで血刀を提げしよんぼりと枕元に立つて居る夢を見て、ハテ気掛りな龍馬に怪我でもありはせぬかと独り心配して居りますと、翌る十七日の夕方左柳高次が早馬で馳せ付け私の前へ平伏して、姉さん、と云つたきり太息をついて居りますから、扨ては愈々と覚悟して、こみ上げる涙をじつと抑へ、左柳これを着かへなさいと縮緬の襦袢を一枚出してやつて別室で休息させ、私は妹の君江と共に香を焚て心斗りの法事を営みました。』
『九日目に三吉さんや助太夫やも寄合つて更めて法事を営みましたが、私は泣いては恥しいと堪え〳〵していましたが到頭堪え切れなくなつて、鋏で以て頭の髪をふツつりと切り取つて龍馬の霊前へ供へるが否や、覚えずワツと泣き伏しました。』
『千葉の娘はお佐野(千里駒には光子とありて龍馬より懸想したりと記したれど想ふに作者が面白く読ません為めに殊更ら構へたるものなるべし)と云つてお転婆だつたさうです。親が剣道の指南番だつたから御殿へも出入したものか一橋公の日記を盗み出して龍馬に呉れたので、龍馬は徳川家の内幕をすつかり知ることが出来たさうです。お佐野はおれの為めには随分骨を折てくれたがおれは何だか好かぬから取り合はなかつたと云つて居りました。』
龍馬はお龍さんに気を使ってそう言ったのか、それとも本音なのか。
プライドの高そうなお龍さんがわざとそういうことにしたのか。
どれでしょうね。
『龍馬の生れた日ですか、天保六年の十一月十五日で丁度斬られた月日(慶応三年十一月十五日)と一緒だと聞ひて居るのですが書物には十月とあります、どちらが真だか分りませぬ。』
『私も蔭になり陽になり色々龍馬の心配をしたのですからセメて自分の働た丈の事は皆さんに覚えて居て貰い度いのです。此の本(千里駒及龍馬伝)の様に誤謬が多くつては私は本当に口惜しいですヨ……。』
『私は土佐を出てからは一生墓守をして暮らす積りで京都で暫らく居つたのですけれど母や妹の世話もせねばならず、と云つた処で京都には力になる様な親戚もなし、東京にはまだ西郷さんや勝さんや海援隊の人もボツ〳〵居るのでそれを便りに東京へ来たのですが、西郷さんはあの通り……、中島や白峰は洋行して居らず……随分心細い思ひも致しました。私は三日でも好い、竹の柱でも構はぬから今一度京都へ行つて墓守りがしたいのです、が思ふ様にはなりませぬ……。龍馬が生きて居つたら又何とか面白い事もあつたでせうが……、是が運命と云ふものでせう。死んだのは昨日の様に思ひますが、早や三十三年になりました。』
龍馬以上に気の合う人には出会えなかったみたいです。
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