葛飾北斎伝要約
今回、原文の《画く》は《描く》に、《画草紙》等は《絵草子》に変えています。
明治26年(1893)の『葛飾北斎伝』によれば、著者飯島半十郎は、生前の葛飾北斎を知る人を訪ね歩き、北斎の伝記を書いたそうです。
天才の属性として、変わり者だったり奇矯な行動が見受けられることが多々ありますが、葛飾北斎の変わり者ぶりも中々のものです。
『葛飾北斎伝』によれば、北斎の本名は為一、さらに多数の筆名を持ち、雷斗等多くの名を門人に譲り、北斎も筆名の一つです。
葛飾北斎の葛飾というのは、本所の生まれなのでこれを卑下して葛飾領の北斎、すなわち百姓の北斎と自称したのが、いつの間にか氏のようになったそうです。
父は徳川家御用達(ごようたし)の鏡師中島伊勢、母は忠臣蔵で有名な吉良上野介の家臣小林平八郎の孫娘。
元禄15年赤穂義士討ち入りの夜、平八郎は防戦して討たれ、残された8歳の娘は親戚の元で成長し、嫁(か)して一女を産みますが、これが中島伊勢の妻で、北斎の母だそうです。
『このこと、北斎常に人に語りし由((よし))』、と同書中にあります。
しかし著者が北斎の曾(ひ)孫の白井孝義に聞いた話では、北斎は川村家から中島家に養子に貰われたそうです。
北斎の息子加瀬崎十郎の娘白井多知女が、その白井孝義の母です。
この北斎の孫娘白井多知女の遺書には、北斎の出自が川村家で、そこから鏡師の中島家に養子に行ったとあるそうです。
著者は白井多知女の遺書の話を書いた後、『疑うべし』と書いています。
当時は北斎の子孫を騙(かた)る人が何人もいたからでしょうか、また北斎自身の語る出自と違うからでしょうか。
最近の北斎の研究ではどうなんでしょうね。
ウィキペディアを見ると、北斎は百姓の子とありました。
それに対する典拠も載せておいてほしいのですが、この北斎の伝記中にはその記述が見当たりません。
ただ、北斎が川柳の葛飾連(連=趣味の集まり・サークル)の棟梁(会長さん)だった頃、百姓という筆名で歌を詠んでいたことは書いてあります。卍という名で絵を描いていた頃です。
北斎は宝暦10年(1760)9月、本所割下水に生まれ、幼名を時太郎、後に本所横網に住し、名を改めて鉄蔵となり、鉄蔵が14、5歳のとき彫刻家某(書中でも某)に弟子入りします。
著者はどこからの情報かを載せず、ただ『一説に』、として北斎が幼時貸本屋の小奴(こやっこ)となり、四方を奔走して暇があれば貸本の絵を見て自ら描き、ついに画道を志したという逸話を載せます。
また彩色通初編(弘化5・1848)の自序に、北斎が6歳から絵を描いたと述べていると紹介しています。
(富嶽百景の初編でも6歳から絵を描いたとあります。)
安永6年(1777)、北斎が19歳のとき、彫刻をやめて浮世絵師勝川春章に弟子入りし、画法を学びます。
数年して師から勝川の氏(うじ)を称することを許され、勝川春朗を名乗るようになります。
またこの頃戯作(げさく=通俗小説類)をしたそうです。
北斎の師、勝川春章は勝川春水の門人で、始め勝宮川と称したそうです。
『案ずるに、宮川、勝川は、もと地名にして尾張国海西郡にあり、勝川は訓((よ))みてカチカワなり』とあります。
後に北斎は狩野某に画法を学びますが、師の春章はこれを聞いて他家の画法を学ぶことに激怒し、北斎を破門にします。
北斎(当時勝川春朗)はこれより、師と同じ勝川を名乗るのをやめ、叢(草むら)春朗と名乗ります。
当時の北斎を知る狂言作者露木孔彰氏の話として、北斎と春章の高弟春好との間に以下のような出来事があったと述べます。
当時両国辺りの絵草紙問屋某の招牌(カンバン)を、北斎が描いたそうです。
絵草紙問屋の主人は喜びましたが、その招牌を店先に掲げようとしたところ、春好が来て大いにその絵の拙さを笑い、『これを掲ぐるは、すなわち師の恥を掲ぐるなり』として、北斎の面前で引き裂き打ち捨てたそうです。
北斎は憤怒耐えかねる気持ちでしたが、やむを得ず頭を抑えて退きました。
このとき北斎は、『いつか世界一の画工となりて、この恥辱を雪((すす))がん』として、狩野某に画法を学んだそうです。
晩年北斎は、『我が画法の発達せしは、実に春好が我を辱めたるに基((もとい))せり』、と語ったそうです。
勝川春好は役者絵及び風俗画を多く描き、画印は師の春章と同じく壺型の印を押したので、世の人はこれを小壺と呼びました。
天明5年(1785)、北斎は春朗から名を改めて群馬亭と称し、戯作を書きます。
翌年には自分で絵を書いて草子本を出します。
天明7年(1787)、北斎は俵屋宗理の画風を慕い、群馬亭から名を改めて菱川宗理と称します。
著者は俵屋宗理の人となりを紹介するため、宝暦8年(1758)版世諺拾遺(せげんしゅうい)という発句集(ほっく集)から、俵屋宗理の「天道人不殺」という題の発句を載せます。
『夕暮れに、生まれかわるや橋涼み』、その下には俵屋宗理画の両国橋の景色が載ります。
この頃北斎は小伝馬町に住し、もっぱら狂歌の摺物(すりもの)を描いたそうです。
北斎の摺物は非凡なので、これを請う人は多かったということですが、これを専業として生活出来る程には足らず、『貧困ことにはなはだしかりし』とあります。
北斎は度々仕事を転じて生活を楽にしようとしますが、あるときは蕃椒(七味唐辛子)を売り歩いて、まったく売れずにやめたそうです。
著者は注して、『七味唐辛子は、陳皮、胡麻など、七種を調合せしものにて、ヤクミ、又はカテと唱え、食物の味を助ける料なり、些少の資本にて、調整し得るものなれば、これを売るものは、大抵貧窮人なり』と述べています。
またあるときは柱暦(柱などにかけておく小さな暦)を売り歩いていると、自分を破門にした勝川春章夫婦と行き逢い、面目を失ったそうです。
そんなとき、北斎に五月幟(のぼり)の絵を頼んだ人がいて、北斎がこれに鍾馗(しょうき)の絵を描くと、その人は大いに喜び、北斎に謝礼として金2両を贈ったそうです。
貧乏生活の中でこの2両を手にした北斎は、たちまち志を一転し、妙見(北斗星)を祈り、『生涯画工をもて世を終わらん』と誓ったそうです。
この日から北斎は、夜の明けきる前から人の寝静まる頃まで、筆を採って練習を重ね、『腕萎え眼疲れて、ようやく筆を止め、蕎麦((そば))ニ椀を』食べて臥(ふ)したそうです。
北斎は死に至るまで、寝につく前には必ず蕎麦を食べることを続けたそうです。
寛政の初年(1789)には、北斎はもっぱら通笑、京伝、馬琴等の戯作の草子を描いたそうです。
著者は京伝について、京橋銀座一丁目に住み、煙管(キセル)や薬等を売ることを生業(なりわい)とし、戯作中興の祖だと述べています。
寛政5、6年の頃(1793、1794)、日光東照宮の改修があり、狩野融川(かのうゆうせん)はその門人と町絵師数名を従え、廟中の絵の仕事をしたそうです。
北斎もまた従い行き、一行が宇都宮まで来たときに、旅亭(宿屋)の主人が絵を融川に請い、融川は請われるままに筆を採り、童子が竿をもって柿を落とす図を描いたそうです。
北斎はこれを見て批評し、「なぜ理をおろそかにするのか、竿の端は既に遙かに柿の所を過ぎているのに、童子はなおもつま先立っている、はたしてどんな意味があるのか」と言いました。
(私の感想
私はソクラテスみたいな人達についていつも思うんですが、なぜ彼らは皆の前でそれを指摘して相手の面目を失わせるのでしょう。そして墓穴を掘る。二人だけの時に指摘して誰にも言わなければ、相手に感謝されることもあるでしょうに。)
融川は怒り、この図は童子のあどけなさを示したものだと言いますが、北斎を憎み、宿から追い出してしまいます。
北斎は独り江戸に帰ったそうです。
その後北斎はニ代目堤等琳(つつみとうりん)の画風を慕い、また住吉内記に就いて土佐風を学び、さらに司馬江漢に就いて西洋画を学び、また明人(中国人)の画法を学んだそうです。
ニ代目堤等琳は雪舟十三世の孫だそうです。
北斎が画風を慕ったのはニ代目堤等琳でしたが、北斎が壮年の頃の友であったのは三代目堤等琳でした。
ある日共に品川の妓楼(ぎろう)に遊んだとき、楼主が二人の合作を望んだそうです。
すると等琳は車を描き、北斎はその上に載せた花籠(はなかご)を描き、それがまた絶妙だったそうです。
住吉内記は、北斎が名を継いだ俵屋宗理が師事した広守の子だそうです。
この頃北斎は宗理と名乗っていました。
司馬江漢は長崎で西洋画を学んだそうです。
寛政11年(1799)、北斎は画風を一変し、それまで名乗っていた宗理を弟子に譲り、北斎辰政と号します。
この名は妙見信仰にちなみ、『妙見は、北斗星、すなわち北辰なり、妙見の祠((ほこら))、今本所柳島にあり』、とあります。
また雷斗、雷震とも名乗ったそうです。
『又かつて柳島妙見に賽せし((神社仏閣にお礼参りすること))途中、大雷のおつるに遭いて、堤下の田んぼに陥りたり、その頃より名を著はしたりとて雷斗と名づけ、また雷震という』
著者は『浮世絵類考』から式亭三馬の言を引き、北斎が多くの名を持つ理由として、北斎は門人に名を譲るときに報奨金を得たので、金に窮すると名を変えたいう話を紹介しています。
『この頃よりして錦絵を描かざりしか、よく狂歌摺物を描き、また草双紙を描き、また自戯作をなす、作名を時太郎可候という、案ずるに、時太郎は、幼名を用いたるなり、可候は、当時ソロベクソロという通言ありて、すべて、おかしきことも、まじめにベクソロとかきながすという意にて、もと書簡文の文字なり』
これはそのまま現代文にした方が分かりやすいでしょうか。
北斎はこの頃から錦絵(多色刷りの浮世絵版画)を描いたものか、よく狂歌摺物を描き、また草双紙を描き、また自戯作をなし、作名を時太郎可候といったそうです。
案じるに、時太郎は幼名であり、可候は当時「そうろう」、「べくそうろう」という通言(世間一般に行われている言葉)があり、すべて可笑しなことも、真面目に「べくそうろう」と書き流すという意味で、元は書簡文(手紙)の文字です。
北斎が本所林町三丁目(家主甚兵衛)に住んでいた頃、(著書では年代不詳・でも有名な出来事なので、1826年・文政9)、江戸にオランダのカピタン(商館長)が来て、北斎に町人の、出産から徐々に成長してついには年老いて死ぬまでの、それぞれの生活を切り取った男女の画集を一巻づつ、計二巻を150金で描いて欲しいと依頼しました。
そのときカピタン付属の医師も、同じ二巻を依頼します。
この医師というのは、著者は名を書いていませんがシーボルトのことです。
北斎は了承し、数日間でこれを描き上げます。
そして四巻の図を携えてカピタンの旅館に行くと、カピタンは150金を出して二巻を受領しました。
次に医師の元に行くと、医師は「カピタンと違い薄給なので、半額の75金に負けて欲しい」と言います。
北斎は、「なぜ最初に言ってくれなかったのか、初めから言ってくれていたら、彩色その他を略して75金にしたものを」、と少し怒ります。
そこで医師が、では75金で男子の巻だけを売って欲しいと言うと、その頃極貧だった北斎は、二巻とも懐に入れて帰ってしまいます。
北斎の妻はこの話を聞くと、「日夜丹精を込めて描いたとはいえ、この図は我が国では珍しくもないもの、売ろうとしても買う者は皆無でしょう。時間と費用を計算すれば損失だとはいえ、75金で医師に与えるのが得策です。今75金を得ることが出来なければ、貧苦の上に貧苦を重ねることになります。」と北斎を諌めます。
北斎は言葉も無く黙りこみ、ややしばらくして、「貧苦が迫っているのは自分も知っている。しかし外国人が約束に背いたのにその通りにしておいたら、自分の損失は免れたとしても、我が国の人間が掛け値を言うとの嘲りを免れることはできない。自分はそう考えたから持ち帰ったのだ。」と答えました。
後に通訳の某がこのことを聞いてカピタンに語ると、カピタンは深く感じ入り、ただちに150金を出して先の二巻を請い受けたそうです。
カピタンがそれをオランダに持ち帰ると、その後オランダから絵を請う者が多く、毎年数百枚の絵を長崎に送り、海外に輸出したそうです。
後に幕府は国内の秘密が漏れることを恐れ、これを禁止します。
文化元年(1804)、北斎は江戸音羽護国寺の観音菩薩の開帳のおり、畳120枚分の大厚紙を敷き、酒樽に墨汁を充たして、藁箒(わらぼうき)を筆にし、巨大な達磨(ダルマ)を描いたそうです。
『このとき、堤等琳三世などは、北斎がいかにして描くやと、首を傾げつつ護国寺に至り、一覧して大いに驚きたり』
見る者は地上からでは何が描いてあるか分からず、本堂の上に登って始めてそれが達磨だと分かったそうです。
その巨大さは、『口に馬を通すべく、眼に人を座せしめて余りあり』とあり、聴衆は、『その腕力の奇巧に驚かざるはなし』と感嘆しました。
その後北斎は本所合羽千場において、前回同様の大紙に馬を描き、また両国回向院でも布袋を大書したそうです。
著者は「米国の人バンバート氏が帆布((キャンバス))三英里の平面に、ミシシッピ三千里の風景を描いて世界第一の大画と称せられたのを聞くが、我が国においては北斎をもって始めとする」、としています。
注して1856年版米人コードレー氏の修身書に出づとあります。
著者によれば、北斎ほど大きくない普通の大図は、京都浄福寺の僧古潤が巧みだったそうです。
古潤は弟子の高田敬輔に大図の技を伝えましたが、著者は『古潤、敬輔といえども、未だこのごとき大図を描きしを聞かざるなり』、と述べています。
北斎は巨大も巧みでしたが、最小の絵もまた巧みでした。
先の回向院での巨大な布袋を描いたとき、布袋の後に米一粒に雀二羽を描いたそうです。
さらに北斎は縮尺図も巧みで、この頃京都の鍬形恵斎が江戸一覧図を描き世人を驚かしたそうです。
これは江戸八百八町を一紙に縮めたものでしたが、北斎はこれを笑い、武蔵、相模、伊豆、安房、上総、下総を一紙に縮図して房総一覧図と名付けて刊行しました。
その巧妙さは鍬形恵斎を抜き、世人を驚かせたそうです。
時に、徳川将軍家斉(いえなり)が北斎の妙技を聞き、放鷹のおり、写山楼文晁(谷文晁)と葛飾北斎を浅草伝法院に召して、絵を描かせたそうです。
著者は注して、将軍家は毎年鷹を放ち、鶴を捕らえて朝廷に献上する習わしがあるので、将軍は時々野外に出て鷹の訓練をしたと述べます。
まず文晁が描き、次に北斎の番になると、北斎は将軍の前で恐れるふうもなく、まず花鳥山月を描き、この時点で皆感嘆しない者はなかったそうですが、さらに北斎は長く継いだ唐紙を横にし、それに刷毛(ハケ)で長く藍(あい)を引き、携えてきた鶏を籠から出してその足に朱を付け、紙の上に放したそうです。
紙上には見事な足跡が散らばり、北斎は「これ立田川の風景なり」として、拝礼して退きました。
皆は北斎の奇巧に驚き、文晁は手に汗を握ったそうです。
立田川は、奈良の紅葉の名所竜田川のことです。
これにより北斎の名はさらに高まり、絵を請う者や学ぶ者が踵(きびす)を接して(ひっきりなしに)至ったそうです。
それでも北斎の貧苦には何も変わりはなかったといいます。
北斎は当時、徳利、鶏卵、諸器具にいたるまで、何にでも墨をつけて画材にしていたそうです。
文化4年(1807)、江戸麹町の書肆(しょし=書店)角丸屋甚助が、『新編水滸画伝』を出版します。
これは、里見八犬伝等の作者として有名な滝沢馬琴が、中国の水滸伝を翻訳し、それに葛飾北斎が絵を付けたものです。
しかし滝沢馬琴は水滸伝に思い入れが強く、日本の生活しか見たことのない葛飾北斎、ましてや水滸伝の舞台である中国の宋の時代の衣服や住居や生活を知らない葛飾北斎の、中国でもなければ日本でもない、その絵の不正確さが気に入らず、二人は喧嘩になります。
版元は二人の和解に苦しみ、ついに江戸の書肆が一同に会して評議の結果、「文章は馬琴、絵は北斎とどちらも優劣つけ難く」、ついに「この本は絵本と称するのだから」と言って、北斎の絵を優先することに決し、馬琴を外して他の翻訳者に変えてしまいます。
そういうわけで『新編水滸画伝』の後編は、高山蘭山という者が書き継ぐことになります。
しかし北斎は馬琴の文才は認めていたようで、高山蘭山の文を読み、『馬琴の翻訳に及ばざること遠し』、と嘆いたそうです。
文化5年(1808)、江戸の書肆須原屋市兵衛が、『三七全伝南柯之夢』を出版します。
滝沢馬琴が文章を描き、葛飾北斎が絵を描いたものです。
南柯之夢も水滸伝のように中国の小説ですが、この『三七全伝南柯之夢』は、日本を舞台に翻案したものです。
日本を舞台にしたことで、馬琴も北斎もまたコンビを組むことを了承したのかもしれませんが、北斎が馬琴の文章にない場面を書き加えたことで、二人はまた喧嘩になります。
それは親の欲から仲を裂かれた主人公の男女が、情死(心中)に赴く場面でしたが、北斎は野狐が食をあさる姿を描き加え、寒夜の景物としました。
すると馬琴は、「これでは情死の男女が狐に化かされたようではないか」と思い、削除すべしとして版元に突き返します。
(私の感想
現代の漫画の、原作と作画の仲違いを思い起こさせます。)
これに対して北斎は、『彼は余((よ=自分))が挿画によりて、著者の意を補うを知らざるなり、強((し))いて削り去らんとならば、前回より描きし挿画を返還せよ』、と大いに怒ります。
版元は『はなはだ迷惑し、百方((ひゃっぽう))奔走して、ようやく和解を結』んだそうです。
北斎は馬琴の家の食客(しょっかく=いそうろう)になっていた時期があるそうです。
その頃の逸話が載ります。
馬琴は北斎が貧乏しているのを知っていたので、北斎の母の年忌に香典を包んで与えました。
しかし北斎がその夜馬琴の家に帰ると、談笑の内に懐から先の香典の包み紙を取り出し、鼻をかんで投げ出したそうです。
馬琴はこれを見て大いに怒り、「あれは今朝自分が北斎に与えた香典の包み紙ではないか、さては仏事に使わなかったな」、と北斎を責めますが、北斎が答えて言うには、「父母の霊を供養するのは世俗の虚礼である、真の親孝行とはその金で自分の身を養い、百歳までも長生きするのが真の親孝行である」と返し、馬琴を呆れさせます。
こんな感じで二人は性格が馴染まず、著者の意見では北斎の方は気にしていなかったのではないかとしながらも、馬琴は北斎を嫌ったかもしれないので、それで生涯の絶交に至ったのではないかと書いています。
馬琴は厳格な性格で、北斎の方はそうではなかったようです。
文化7年(1810)、北斎は市村座顔見世狂言の看板を描きます。
北斎の絵ということで見物人は多かったのですが、人物を痩せて(というか多分普通に)描いたので、人々は「歌舞伎の看板絵は鳥居ふうに描かないと」、と言い合ったそうです。
この鳥居ふうというのは、元禄正徳年間に歌舞伎の絵看板を描いて人気を博した、初代鳥居庄兵衛清信から以後、代々受け継がれる伝統で、当時歌舞伎の看板は鳥居にかぎると思われていました。
現在の鳥居派は女性で、2012年12月現在で74歳、鳥居派9代目だそうです。
その特徴は手足を太く、ヒョウタンのように描くので、専門家は鳥居のヒョウタン足と呼んだそうです。
北斎も人々の評判を聞いて後悔したそうですが、著者は北斎の看板絵が拙かったのではなく、皆太った歌舞伎の看板絵を見慣れていたからだろうと述べています。
この頃俳優の尾上梅幸の技芸が世に名高かったそうです。
とくに梅幸は幽霊に扮するのが巧みでした。
この梅幸が北斎を招き、幽霊の絵を描かせたことがあり、その幽霊の絵が真に迫っていたので、梅幸は扮装をして、いよいよその技を磨こうとしたそうです。
梅幸はある日輿(こし)に乗り、北斎の家を訪ねます。
しかしその家はとても貧しく、室内は荒れ果て、今まで掃除をしたこともないので梅幸はとても不潔に感じます。
梅幸は驚き、再び戸外(こがい)に出て輿丁(よてい=輿を担ぐ人)を呼び、輿中の毛氈(もうせん)を持って来るよう言いつけ、それを室内に敷かせ、さて室内に入り北斎に挨拶しようとしますが、北斎はこの非礼を怒り、机の場所から梅幸の方に振り向きもしません。
その北斎の態度に梅幸も怒り出し、結局一言も交えずに立ち去ったそうです。
『梅幸これに驚き、再び戸外に出でて、輿丁を呼び、輿中の毛氈を出だし、これを室内に敷かしめ、さて室内に入りて座し、一礼を述べんとせしが、北斎その挙動の不敬にわたれるを憤り、机によりて顧みず、梅幸もまた憤然、一語も交えずして立ちさりたり』
このように相手の非礼には厳しかった北斎ですが、世間的な虚礼には興味がありませんでした。
『門には、百姓八右衛門とかきたる名刺を貼り、室には、おじぎ無用、みやげ無用の壁書をかかぐ』
その後梅幸は先の非礼を詫び、北斎と梅幸は『それより相交わることはなはだ深し』というように仲良くなります。
梅幸が一世一題(原著でも一世一代ではなく題)の演劇、東海道五十三次を演じたとき、北斎はこれを見る前に蚊帳(かや)を売り、その金二朱を懐に入れて劇場に行き、最後まで見た後、その二朱を紙に包んで梅幸に与え、本所石原の家に帰ったそうです。
北斎の住んでいた地域は蚊が多く、これは夏場のことでした。
北斎は蚊帳を売り、毎夜たくさんの蚊に刺されながら、平常のように筆を採って絵を描いたそうです。
見かねた友人の一人が、蚊帳を買って北斎に与えたそうです。
文化14年(1817)、名古屋に一年ほど逗留(とうりゅう)したそうです。
その後伊勢、紀州、大坂、京都を歴遊して、江戸に帰ったそうです。
『北斎尾州名古屋より伊勢に行き、紀州に入り、それより大坂京都を歴遊し、江戸に帰りしという』
文政の末年(1830)、北斎が68、9の頃、中風を患ったそうです。
自分で薬を作って服用すると、また元のように身体が強壮になったそうです。
その製法が載ります。
卒中の薬のこと
『そっちうのくすりの事
二十四時経たざる内に用いる、二十四時半かけても効きます
柚子
細かに刻み
竹べらにて、刻み候((そうろう))、包丁、小刀、鉄銅は、嫌い申し候
土鍋
鍋
鉄銅は、嫌い申し候
極上々の酒一合、柚子一つ、細かに刻み、土鍋にて静かに、煮詰め、水飴くらいに煮詰め、白湯にて二度くらいに用いる、種は、煮詰めた上にて、取り捨て候』
天保5年(1834)、北斎は富嶽百景の初編を描いたおり、名を改めて卍(まんじ)とします。
この後落款(らっかん)は必ず『画狂老人卍』か、『前北斎卍』と書いたそうです。
富嶽百景の初編には、北斎の跋(ばつ=あとがき)文があり、そこには「すでに6歳の頃から物の形状を写す癖があり、若い頃からたくさんの絵を描いて来たが、70年描いてきたもので、実は取るに足るものはない。73歳にして、禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟り得た。ゆえに80歳でまずまず進み、90歳でなおその奥意を極め、100歳で神妙に至り、110歳にして一点一格にして生きるがごとくなろうか」、と書いています。
当時北斎の名声は知らない者がいないほどでした。
でも世間の人は、改名した卍が北斎ということは知りません。
この頃北斎は川柳ふうの狂歌を好み、百姓という筆名で優れた歌を多く詠み、葛飾連(れん・連=趣味の集まり・サークル)の棟梁(会長さん)だったそうです。
あるとき中橋の小川という茶店(ちゃみせ)で、川柳点の開巻(=サークルの集まり)があり、その帰りがけ、人々と共に日が暮れたので、日本橋の店に小田原提灯(ちょうちん)を一つ買いに寄ったそうです。
しかしその店には、油も引かない白い提灯しか置いていませんでした。
そのとき連(サークル)中の夢助という人が、「卍さん、ちょっと描いてよ」と言うと、『翁はよしよしとて』傍らの硯箱にあった筆を採り、提灯の下げる方を店の男に持たせ、底の方を左の手に持ち、簡単な模様(ワラビのような)をニつ三つ描いたそうです。
店の男がこれを見て、「お前さんは中々絵心があります」と言うと、人々はドッと笑ったそうです。
同年の冬か天保6年の春、北斎は江戸を去って相州浦賀に潜伏したそうです。
姓名も変えて三浦屋八右衛門としました。
その理由は定かでなく、借金取りから逃れるため、法を犯したため、等いくつかの説が載ります。
著者は相州浦賀を訪れます。
西浦賀の旅店吉川に泊まり、北斎の潜伏した地なので、何か北斎に関する話が遺っていないかと訪ね歩きます。
そして中島三郎助(ペリー来航時サスケハナ号に乗船した与力)の妻の父、岡田某が北斎の門人であったこと、北斎は倉田氏の家にやっかいになっていたことを教えられます。
年齢38、9の倉田氏によれば、亡き母の話として、北斎は我が家の家系から出たと聞かされたそうです。
しかし倉田氏は、北斎が何代前の誰の子か等、詳しいことは知りませんでした。
著者は薄暮れに人力車を馳せて横浜に向かい、そして推論します。
「我が国において商売の屋号は、越後屋にしても信濃屋にしても、その家の出生地を屋号にするのが常の例。かの北斎翁が三浦屋と称したのは、もとより仮の屋号としても、出生地と関係があるのではないか。
知るべからず。」
「また倉田氏は旧家で、寛永以来この地にあり、浦賀番所の用達をし、家は富み、文人墨客(ぶんじんぼっかく)がこの地に来れば、必ず倉田氏の家に投宿した。北斎の父という中島伊勢と倉田氏とは同格の商人、あるいは両家は親戚で、北斎はこの地に生まれ、後に中島氏に養子に貰われたものか。
知るべからず。」
「また北斎翁の葬式のとき、その兄弟姉妹姪甥は現れず、実家である中島氏からも香花を手向けたと聞かずとすれば、あるいは翁幼い頃に中島氏に養子に出され、後に家を出たものかも。
知るべからず。」
「倉田氏の母の、北斎は我が家より出たる人なりというのは、北斎は我が家にいたが、後に江戸に出て高名な画家になったという意味か。
知るべからず。」
「北斎翁が浦賀の人と言う説、後世の考えを待つ。」
著者は、北斎が浦賀から江戸に帰ったのがいつ頃かは定かでないが、涼しい土用とだけは分かっているので、天保7年(1836)頃ではないかと推論します。
天保7年は諸国飢饉の年で、夏頃はとても涼しかったそうです。
北斎は7年の夏ごろはまだ浦賀に居て、多くの画帳を描いて飢餓を免れたそうです。
北斎は7年の秋には江戸に帰っていたとして、北斎と親交のあった柴文という老翁(ろうおう)の話を載せます。
天保7年は諸国が飢饉で、江戸市中でも飢えて路上に倒れる人が多く、商店も皆休業のありさまでした。
錦絵や絵草紙というものは誰も買う者がなく、ましてや新しい絵を発行する版元もなく、画工などは特に窮したそうです。
このとき北斎は一計を案じ、唐紙、奉書、半紙等、どんな紙でもいいからと、机の辺りにうず高く積み置き、日夜腕をふるって山水人物、花鳥草木等を筆にまかせて描き、それを表装して画帖を作り、所々の絵草紙屋に列ねると、有名な北斎の絵なので飢饉の中でも買う者があり、これで北斎は餓死を免れたそうです。
その時の画帖の表題は肉筆帖でした。
また露木氏の話として、天保の飢饉のとき、肉筆帖だけでは三食に足りないとして、絵直しの仕事を始めたそうです。
絵直しを請う者は、まず筆に墨をつけて「点」または「線」を引き、これに米一升を添えて北斎の元に送れば、北斎はその「点」または「線」に筆を添え、種々のものに描き上げて与えたそうです。
これを投米会と称し、請う者が争い来たので、一日に2、3斗(1斗=18リットル)にもなったことがあるそうです。
著者は『絵直しの戯、古よりこれあり』と述べています。
北斎は75歳で転居56回の内、火事に遭ったことは一度もありませんでした。
当時火事は江戸の花と称するほど名物で、冬春の頃は毎夜2、3回の火事が普通だったそうです。
しかし北斎はついに火事に遭い、衣類諸道具を失い、娘と共に乞食同然になります。
『その火事に遭いしとき、翁は筆を握りて家を飛び出し、娘お栄も続きて後より飛び出((い))だし』
家財を片付けて持ち出す暇はあったそうですが、後も見ずに逃げ去ったそうです。
絵を請う者があり、筆はあっても硯やその他の器物がなく、徳利(とっくり)を打ち砕いて底の方を筆洗いとし、破片を絵の具皿としたそうです。
この頃の貧苦は平常よりもさらに酷かったそうですが、『されどさらに憂うる色なし』とあります。
このときの火事により、幼い頃から描きためていた絵は全て灰になります。
それは和漢、古今、西洋の画図に至るまで、見るべきものがあれば縮写して来たもので、量は車一杯あったそうです。
北斎は深くため息をつき、これ以後は縮写をせず、また下書きのたぐいも残すのをやめます。
嘉永2年(1849)、北斎は病気になり、医師にも老衰なので助からないと言われ、門人旧友の集まる中、北斎は嘆息し、『天我をして十年の命を長うせしめい』と言い、しばらくして更に、『天の我をして五年の命を保たしめい、真正の画工となるを得べし』、と言い終わると死んだそうです。
ときに嘉永2年4月18日、齢90、浅草の誓教寺に葬るとあります。
『翁の死するや、門人および旧友等、おのおの出金して、葬式の礼を行いたり、棺槨(かんかく)などは、粗製のものなりしが、見送りの人々の中には、槍、挾箱((はさみばこ))などもたせたる士もありて、およそ百人程にて、誓教寺へ赴きたり、裏店((うらだな=下層庶民の借家住居))より槍箱など持たせて、見送りし葬礼は、かつてこれなきこととて、近隣の者ども大いに羨みたり』
北斎の遺骨は初めは佛清墓と彫られた墓に納められ、後に北斎の曾(ひ)孫加瀬【永月】次郎が北斎の墓を新たに建てたそうです。
この新しい北斎の墓石には大きく川村氏と彫ってあるので、怪しんだ著者が北斎の曾孫白井氏に問うと、『川村は翁の実家の氏にして、中島は養家の氏なり』と答えました。
北斎は川村某の子で、4、5歳の頃中島氏の養子になり、長じて家を継ぎ、一旦は鏡師になるも、後に北斎の長男富之助に代わりに跡を継がせ、家を出て実家の川村氏を称したそうです。
しかし著者はこの話を疑っていたようで、後述のように長男について二説を載せます。
北斎は酒を飲まず、煙草を吸わず、上等の茶を飲まなかったそうです。
北斎は菓子を好み、お土産に一つ4文の大福で大喜びでした。
土くれのようにお金を費やし、貯金をしなかったそうです。
通常の画工の画料が、絵本類一丁金二朱(明治時代の12銭5厘)だったところ、北斎の画料は金一分(明治時代の5銭)でした。
北斎は常に赤貧で、衣服も『寒を凌ぐに足らず』という生活でした。
紙に包まれた画図の報奨金を、中身も確かめずに机辺に投げ出しておき、商人が来て催促すれば、その包みのまま投げ与えます。
商人は家に持ち帰って意外な金の多さに驚きますが、ひそかにこれを着服し、不足していればまた催促しました。
北斎は掃除をせず、娘のお栄も掃除をしません。
北斎は部屋の隅の蜘蛛の巣が消えただけでもお栄を呼び、知らないかと訊くと、お栄も首を傾げて透かし見て、大いに怪しんだそうです。
親娘二人とも似たもの同士でした。
北斎が本所石原片町に住んでいた頃には、隣の煮売り酒屋(煮売りを兼業した居酒屋)の料理を三食運んだので、家には飯炊きの道具もなく、ただ土瓶と2、3個の茶碗があるだけでした。
『三食の供膳は、皆この酒店より運びたり』
客があれば隣の小奴(こやっこ)を呼びます。
『土瓶を出(い)だし、茶をといい』
北斎は生涯赤貧のままでした。
壮年の頃は机もなく、飯櫃(めしびつ)を机代わりにしていたそうです。
北斎が本所亀津榿(はんのき)馬場に住んでいた頃の様子はこうです。
荒れ果てた室内にコタツを背にして布団を肩に上げ、筆を採って絵を描く北斎の姿、それをうかがい見る娘お栄。
お栄の傍らの柱には、みかん箱を少し高く釘付けにして、中には日連の像が安置される。
北斎は9月下旬から4月上旬までは、コタツから離れることがなかったそうです。
『いかなる人に面会すとも、かつてコタツを離るることなし』
北斎は法華経の普賢品の呪文、阿檀地(あたんだい)をよく唱えたそうです。
これを唱えるときは途中で止めることがなく、歩行するときは知り合いに遇っても眼に入らなかったそうです。
奥州津軽の城主が、北斎を招いて屏風を描かせようとしたことがあります。
使者が数回訪れても北斎は行かず、津軽家の家臣が金五両を贈り、今から自分と同行して欲しいと言い、もし先生の絵を城主が気に入ればさらに報奨があるはずと言いますが、北斎は用事があるからと答えて行かず、それから数日が経ち、かの藩士が来て同行を促しても北斎は動きません。
藩士は大いに怒り、北斎を斬って自分も死ぬと言い出します。
周囲にいた人々はそれを見て藩士をなだめ、北斎に勧めて行かせようとしますが北斎は聞きません。
ついには「初めに受け取った五両を返せばいいだろう、明日藩邸まで人に届けさせよう」と言うと、藩士も周りの人も呆れ果てたそうです。
数ヶ月後、北斎は招かれもしないのに突然津軽藩邸を訪れて屏風に野馬群遊の絵を描き、これは今なお(著者の時代)津軽家にあるそうです。
勘定奉行だった久須美佐渡守(くすみさどのかみ)が北斎を招いて絵を描かせたときには、北斎は初め密画を2、3葉(紙のこと)に描き、それから半紙を捻(ひね)り、傍らにいた児童に与え、これに墨をつけて紙の上に滴(たら)すように言うと、児童は言うとおりに墨をつけてポタリと滴しました。
北斎はその滴した墨を元に、化物のような奇々怪々の絵を描き、その筆運びに人々は深く感嘆したそうです。
「北斎はどうせ誰の話も聞かないので、好きにさせておくよりほかにない」として、この日北斎は黄昏に来て深更まで、児童と戯(たわむ)れながら絵を描いたそうです。
北斎は人体を描くのに骨格を知らずには描けないとして、接骨家名倉彌次兵衛に弟子入りし、接骨術を学びます。
北斎は筋骨を研究し、画法の段階を進みます。
『接骨の術を学び、筋骨の究理をなし、しかして始めて人物を描くの真法を得ざりと』
あるとき露木氏(北斎の弟子の一人)が自身の画力の無さにため息をつき、北斎の娘お栄に弱音をはいたそうです。
するとお栄は、「父北斎は幼年の頃から80余年の間、日々筆を採らない日などなかったが、それでもあるとき腕を組み、『余は実は猫一匹も描くこと能((あた))わず』と言い、落涙したことがあった」と語ります。
さらにお栄は続けて、「そのようなときは、その道の上達するときなり」、と語りました。
北斎は転居について、「幕府の表坊主に百庵という人がいて、この人は生涯の転居数百回を目指して百庵と号し、今は既に90余回転居をしているという。自分もこの人に倣((なら))い、百回の転居をなして死所を定めよう」と語ったそうです。
百庵は百回の転居の後に亡くなり、北斎は93回の転居で亡くなったそうです。
『余もまた百庵にならい、百回の転居をなし、しかして死所を卜すべし』
著者は北斎の本を紹介して行きますが、その中の百八星誕肖像(すいこでんゆうしのえづくし)という本の紹介では、北斎が日本と元明(げん・みん=中国の王朝)の絵を比較して論じていることを述べます。
それは両国の肖像について、元明の絵は優弱の癖があり、日本の絵は剛毅の癖があるというものです。
『肖像は、元明の画は優弱の癖あり、本朝の画は、剛気の癖あることを論ぜり、その果たして然((しか))るや否やを知らざれども、これ蓋((けだ))し翁が自論なるべし、奥付に、文政十二年((1829))』
北斎は最初の妻との間に一男二女を生み、妻と離別か死別かを著者は知らずとあります。
後に別の妻を迎え、一男一女を生み、また妻と離別か死別かを著者は知らずとあります。
その後は終生独身でした。
長男には二説あり、一説は名を富之助といい、中島家を継ぎ鏡師になります。
もう一説は放蕩無頼で、北斎は常にこの長男のために心を痛め、度々借金の肩代わりをしたそうです。
次男は後妻が生んだ子で、幼名を多吉郎。
本郷竹町の商人勘助という者に養われ、後に御家人加瀬某の養子になり、名を崎十郎と改め、御小人目付から段々出世して、御天守番になります。
一説には出世して御徒目付(おかちめつけ)になります。
俳諧を好み、椿岳庵木峨といったそうです。
北斎の新しい墓を建てた加瀬【永月】次郎はこの崎十郎の孫で、北斎の曾孫だそうです。
『かの画狂老人の墓を建てたる、加瀬【永月】次郎氏は、この崎十郎の孫にして、すなわち翁の曾孫なり』
加瀬崎十郎の娘白井多知女の息子、つまり北斎の曾孫を自称する白井孝義氏が著者に語ったところでは、世にある葛飾北斎の子孫という者の中で、自分だけが本物だということです。
『同氏の言によれば、かの世に北斎の後孫など称するものは、皆そのいつわりなるを知るべし』
(私の感想
結局、その後の研究では白井孝義氏の言の正しさは証明されたのでしょうか。
証明されたのか、それとも証明されないまま白井孝義氏の言を信じ、その母の遺書にあるという、北斎の出生の秘密(川村家から鏡師の中島家への養子)が定説となっているのか、最近の北斎関係の本を読まない私には、少しミステリーだったりします。
なぜ気になるかといえば、北斎が川村家から出たことは、北斎の曾孫を自称する加瀬【永月】次郎が新たに建てた墓に、大きく川村家と刻すまで世間に知られず、北斎が川村家から養子に出されたという話も、北斎の曾孫を自称する白井孝義氏が、母の遺書にそうあると証言するまでは誰も知らなかったからです。
さらに著者が浦賀を訪れて話を聞いた、北斎は浦賀の倉田家の家系から出て、浦賀潜伏中は倉田家に世話になっていたという話。
そして高名のゆえに百人以上が集まった北斎の葬礼には、川村家の名が出てこないこと。
曾孫を自称する二人により初めて知らされる事実というのは、それが真実であろうと、何か引っかかります。)
長女の名は一説にお美輿(みよ)。
門人柳川重信、鈴木重兵衛に嫁ぐも、睦まじからずして家に帰り死す。
長女と重信との間に男児あり。放蕩息子。
次女の名は一説にお鉄。
絵をよくする。嫁ぐも若くして死す。
一説に幕府の用達某に嫁ぐ。
三女、名はお栄。
水油屋庄兵衛の息子南澤等明に嫁ぐ。
南澤等明は幼名吉之助。長じて絵師等琳の門に入り、画法を学ぶ。
等明と号し、お栄を妻にするが仲睦まじからずして離別。
『關根氏いわく、お栄の挙動、北斎翁に似たれば、その離別せられるも、またよろしからずや、且((かつ))かの等明は、絵を嗜((たしな))みて描きたれど、お栄よりは拙((つたな))し、ゆえにお栄は、常に絵の拙き所を指して、笑いしと』
お栄は家に帰っても再婚せず、應爲(おうい)と号して父の仕事を助けました。
美人画が得意で、『筆意あるいは父に優れる所あり』、とあります。
應爲の名は一説によればとして、『應爲は訓((よ))みてオーイ、すなわち呼ぶ声なり、お栄父と同居、ゆえにオーイオーイ親父ドノといえる、大津絵節より取りたるならん』、とあります。
『北斎翁かつて人に語りていわく、余の美人画は、お栄に及ばざるなり。彼は妙に描きて、よく画法にかなえり』
梅彦氏はかつてお栄に、稲荷社に供する発句の奉燈の口絵を依頼したそうです。
お栄は承知し、盆栽の桜の陰に子猫の戯れる所を描いたそうです。
それは素晴らしい細密画でした。
同氏がお栄に、「奉燈の口絵なのだから、このように細密でなくてもいいのに」と言うと、お栄は『絹本((けんぽん))は裏打ちしないものなれば、尋常の画工ならば、謝絶して描かざるべし。妾((私))は、試みにその描き難きものを描きたるなり。知らずしらず細密になりたれど、他人の言うごとく、描き難きものにあらず』と答えたそうです。
同氏はそれがあまりに見事な出来ばえなので、これを奉燈に使うのが惜しくなり、ついに奉燈用には別の者に描かせ、お栄の絵を表装して珍蔵したそうです。
しかし後に火災で焼けてしまい、とても惜しかったそうです。
お栄は北斎に性質が似ていて、男児のような性格だったそうです。
お栄は任侠の風を好み、清貧を楽しみ、悪衣悪食を恥とせず、三食は毎日煮売店から買って来て食べたので、竹の皮が座辺にうず高く積み上がっていたそうです。
しかし少しも気にしませんでした。
絵画の他、観相卜占(人相、手相などの占い)をよくしたそうです。
晩年は仏門に入り、誦念(じゅねん=念仏・経等を唱えること)を怠らなかったそうです。
お栄は仙人になることを目指し、常に茯苓(ぶくりょう=キノコの一種・漢方薬)を服していたそうです。
また芥子人形(けし人形=一文人形・豆人形とも言う)を製造して販売し、巨利を得たことがあるそうです。
これが芥子人形の始まりだそうです。
(私の感想
芥子人形を辞書で引くと、女児の玩具やひな祭りの飾りとして江戸時代に流行したとあります。
あと思いつくのは、こけしの由来の一つが芥子人形という話ですね。)
芥子人形↓
上半分=一文人形…下半分=飛び人形↓
北斎が死ぬと、お栄は門人や親類の家を泊まり歩き、親戚加瀬氏の家を出た後は行方不明になります。
一説に金沢に赴き67歳で死去。
一説に武州金沢(神奈川県)の近傍に至り死去。
一説に信州高井郡、小布施村、高井三九郎宅に至りて死去。
白井多知女の遺書によれば、安政4年(1857)の夏、東海道戸塚宿の文蔵という人がお栄を招いて絵を請いますが、お栄は筆を懐にして出て行き、それ以来行方不明とあります。
露木氏の話によれば、お栄は北斎と性質が似ていましたが、少し酒を飲み、煙草を吸う所が北斎と違っていたそうです。
あるときお栄は、誤って北斎が描いた絹本の絵に煙草の吸殻を落としました。
お栄は後悔して禁煙しましたが、しばらくしてまた吸い出したそうです。
またお栄の顔は醜く、腮(えら)が出て『すこぶる異相』、北斎はお栄をアゴアゴと呼んでいたそうです。
梅彦氏の話によれば、氏が初めてお栄に会ったのは、お栄が20歳の時でしたが、40前後に見えたそうです。
お栄には門人があり、そのほとんどは商家の娘か旗本の士の娘だったそうです。
『晩年には、自ら行きて教授せり』、とあります。
お栄は北斎と違い、髪はいつも乱れていなかったそうです。
しかし部屋を掃除しないのは北斎と同じでした。
お栄の品行はすこぶる正しく、淫れた噂は聞いたことがなかったそうです。
常に北斎の傍らにいて、親孝行だったそうです。
お栄が母方の祖父加瀬崎十郎の家にいたころは、性格が男子のようなので祖母と仲が悪く、常に「妾((私))は筆一本あれば衣食に困ることはないんだ」と言い、家事を馬鹿にしていたそうです。
白井多知女の遺書によれば、他に四女のお猶(なお)があったそうです。
(他に知る者がいないので)、著者は早死にだろうかとしています。
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