大正時代の公衆トイレと路上放尿の状況
吉野作造は1906年(明治39年)、袁世凱に招かれて中国に渡り、北洋法政専門学堂で教え、袁世凱の長男袁克定の家庭教師もつとめ、1909年(明治42年)日本に帰国後、東京帝国大学で法律を教え、三年間の欧米留学の後、デモクラシー(民本主義/民主主義)を説いた人です。
そんな吉野作造が、戦時中軍部と結びついて日本の帝国主義を唱導した徳富蘇峰(ジャーナリスト)の主張に対し、【蘇峰先生の『大正の青年と帝国の前途』を読む】の中で、こんな反論をしています。
『今日の青年を啓導して新日本の真個忠良なる臣民たらしむるの経典たるを得るや否やは大に疑なきを得ない。』
徳富蘇峰先生のやり方では、現在の若者は鼓舞されないのではないか。
『今日の警察の規則では道路に放尿すべからずと戒めて居る。而して此広い東京の市中に便所らしい辻便所は殆んどないといつてもよい。而かも日進月歩の教育は、吾人に教ゆるに極端に我慢をすると膀胱が破裂する危険があることを以てする。而して先輩は偶々此警察禁令を犯すものあるを見て、今日の青年には忍耐力がない、我々の若い時は三日も四日も小便を堪へたやうな事を云ふ。彼等の青年時代には路傍の放尿は法の禁ずる所ではなかつた。今日衛生上の考から之を以て法禁とする以上、彼等先輩は先づ沢山の辻便所を作る事に骨を折らねばならない。』
警察は路上の放尿を厳しく取り締まっているのに、公衆トイレをほとんど見かけない。
トイレを我慢すると身体に悪いのに、今の若者は忍耐力がないと、先輩(徳富蘇峰を含めた老人の世代)は我々の若い頃は3日も4日も小便をこらえたというが、法律で禁止する以上、まずは公衆トイレをたくさん作るのが先ではないか。
『先輩諸君の常に敬服して居る独逸などでは二三丁置きに、中で弁当を開いて喰べてもよい程の立派の辻便所を拵へ、而かも尚特に夜間に限り、車道に向つて放尿するものは之を大目に見るといふ習慣がある。之れ丈けの念の入つた手続を尽した上で、初めて放尿の禁を説くべきである』
先輩たちが常に敬服しているドイツなどでは、二三丁(約2~300メートル)置きに、中で弁当を開いて食べられるくらいキレイな公衆トイレがある。
しかも夜間にかぎり、車道に向かって放尿するものは大目に見る習慣になっている。
これだけして初めて、道路での放尿を禁止すべきである。
『設備なくして法の励行の苛察に亘るの甚だしきは、夜場末の暗がりで止むを得ず放尿しても厳しく法に問はるゝもの少からざるを見ても分る。』
大正時代の日本では、夜、町はずれの暗がりでやむをえず放尿しても、厳しく法律で罰せられる。
『滔々たる政治家皆之れ便所を造らずして西洋の真似をして放尿すべからずと云ふ衛生警察の規則を拵へたもの許りではないか。』
大正時代の日本において政治家のすることは、公衆トイレを作らずに表面的に西洋の真似をして、路上の放尿を禁止するようなものばかりではないか。
『例へば今日の青年の志気の振はざるは、西洋思想若くは西洋文学の結果なりとして、はては西洋の文物に眼を蔽はんことを要求するが如き態度に出づる。西洋の文学の中には余りに個人的な、余りに非国家的な分子もあらう。然し適当に之れを理解して居るものから見れば、此等は恐らく大して青年を誤る種にはならぬだらう。若し斯くの如き文学の流行するが故に青年の志気頽廃するといふならば、火元の西洋では夙うの昔に亡国となつて居なければならぬ筈だ。青年の志気頽廃の原因は必ずや外にある。』
さらには今日の若者がなさけないのを西洋思想や西洋文学のせいにして、西洋の物を禁止しようとする。
たしかに西洋の文学には反社会的なものもあるが、私から見ればこれらは若者に決定的な悪影響を与えるものではない。
もし西洋の文学が若者を退廃させるというなら、火元の西洋の国は既に滅んでいなければならない。
以上、原文は文章が硬いので平易な現代語訳をつけてみました。
最後のは、凶悪事件が起こると漫画やゲームのせいにする、マスコミや一部の評論家を思い出しました。
戦前には路上放尿に厳しかったんですね。
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