添田唖蝉坊と、いろは長屋
2014-08-22 03:51:08
演歌というのは元々、明治初期の自由民権運動の演説から生まれたそうです。
会場での演説が政府弾劾の色を帯びて規制を受けるようになると、そこから街頭演説に移行し、さらにそれが社会風刺の演説歌になります。
この演説歌の略語が演歌で、源流は政府批判や社会風刺を歌ったものでした。
『民衆娯楽』(1924)という本では、現代(大正時代)の娯楽が、浄瑠璃等の型にはまったものから、浪花節等の型を持たない自由な素人芸に推移し、そこに新しい民衆娯楽の特色があると言い、浄瑠璃には台本があり、浪花節には台本のないことを、今の時代に合っているとして肯定しています。
現代では浪花節は演歌よりもマイナーですが、大正時代には浪花節もまた、新しい民衆娯楽だったようです。
私が子供の頃見た演歌主体の歌謡番組では、よく『演歌は日本の心』みたいな紹介のしかたをしていましたが、演歌は日本の心というより、本来は社会風刺を目的とした、新聞の4コマ漫画のようなものだったんですよね。
登場当時はどんなに珍しく目新しい物も、時間が経ち、それの登場を歓迎した若い世代が歳を取ると、それはノスタルジーの対象に変わります。
私が若い頃のピンクレディーやキャンディーズは、ある世代にとっての美空ひばりや笠置シズ子であり、今の若い世代にとってのAKB48や初音ミクなんだなと思います。
そしてあと50年も経つと、AKB48や初音ミクも、ノスタルジーと共に語られるのかもしれません。
草創期の演歌師としては添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)が有名ですが、彼は妻を亡くしてから、四十八軒長屋という貧乏長屋に暮らしていました。
四十八軒長屋については、『変装探訪世態の様々』(1914)という本に詳しく載ります。
この本は、当時の下層庶民の実態を調べて書かれたものですが、それによると四十八軒長屋は方形の区画に12軒の長屋が4棟あり、全部で48軒なので、通称いろは長屋と呼ばれたそうです。
真ん中の二棟はほとんど背中合わせで、一棟毎に共同便所があり、一軒の広さは四畳半、それにプラスして3尺✕1間半(約90cm✕270cm)のスペースに台所や玄関があったそうです。
長屋の敷地の一端には大きな井戸が一つありましたが、水は赤サビていて飲料には使えないので、半丁(約50m)程離れた所にある東京市の水道栓まで、手桶やバケツを持って水を汲みに行ったそうです。
『おかみさん達は手に手に手桶やバケツをさげてガヤガヤと口角泡を飛ばして大会議を開催している、その会議に熱中していてもいづれも油断なく水道口の形勢を監視していて、一人が済むといち早く十数人が突進するのでいつも激烈な水汲み競争水合戦が行われる、一朝ここに衝突でも起ころうものならおかみさん連の悪罵嘲声は付近を驚かせて凄まじく、手桶飛びバケツ飛んで女同士の大喧嘩が始まるそうだ』p4
しかも彼らは貧乏なので、その多くは自分の家族以外に部屋を又貸ししていました。
部屋は四畳半一部屋しかないので、夜中働いて昼間寝る人や、昼間働いて夜寝る人や、その生活時間帯を組み合わせて、可能な限り多くの人が暮らしていたそうです。
しかもそんな生活に関わらず、彼らは戸締まりもせずに生活しているのに、住民同士で泥棒の被害に合うことはないそうです。
著者はこの点を賞賛しています。
『不思議にもいっかくの中にあっては自他の所有権を互いに侵害せぬだけの社会道徳が確立されている。この点において社会道徳の地を払って顧りみられぬ物騒な現代すべての世間並よりもこのいっかくの方が遥かに理想的な一社会を組織している訳だ。』p19
彼らの職業は様々ですが、ざっと見たところ一番多いのは日雇い労働者で、次に多いのが人力車の車夫です。
あと普通の屑拾いとは別に、ヨナゲ師という職業が気になります。
このヨナゲ師というのは、ドブや下水や川に入り、ザルで浚って廃棄物を拾い、屑屋に売る商売だそうです。
この仕事で成功した人は、ヨナゲ舟と称して小舟を買い、この舟に乗って川底から廃物を拾ったそうです。
しかし給金の少ない彼らのほとんどは貯蓄する余裕もないので、著者は彼らの生活を表現するために、当時のこんな流行歌を紹介してしています。
『土方殺すに刃物はいらぬ雨の十日も降れば死ぬ』p20
住民の紹介の中に、特に哀れを誘うものがあるので抜粋して紹介します。
『水口滋次郎 年齢四十二歳 職業古物商 家族二人
七十余歳の老母と二人からくも生計を続けいたるが病身な戸主は既に二ヶ月あまり病臥す、病症脊髄病。目下済生会の施療を受け居れり、老母の海老のように腰を折りて洋傘の柄の古杖にすがり看病やら薬取りやら炊事やらをなす態目もあてられず。収入は絶無なるより老母は古足袋の繕いをなして日にようやく四五銭の収入を得つつありたるが近来一人の同居人を置き同居人より一日五銭の間代を得、四畳半一間に病臥の倅(せがれ)と同居人を置きて老母が不自由なる身を終日働き居る心情人をしてそぞろ熱涙を催さしむるものあり。家財のほとんど全部を既に売却し仏壇をも先日売り払いたりと。かくて一日十銭足らずの収入をもって、この薄命な母子の命をいつまでかつなぎ得べき。熱涙を漏らして帰れる記者の報告を聞きて我が二十世紀社は翌日僅かながら一封の見舞金を送りたるが、これを受けて老母も病人も慟哭す。病人の枕に近く済生会深川診療所長秋山辰三氏が滋養料として送れる一封の包み紙を大切に保存しあるさまいぢらしくも悲しく記者はほとんど一語をも発するあたわず泣いてこの家を辞す、』
ただこれらの四十八軒長屋の生活は、それでも東京の最下層とは言えず、さらに下層の深川本所辺りの生活者は、定職がないので我が子を角兵衛獅子(大道芸の一種で子供の獅子舞)や、乞食に貸し出して賃料を貰って生活したそうです。
この本が書かれた当時、演歌師の添田唖蝉坊はこの長屋に住んで三年目でしたが、この四十八軒長屋から賭博の悪習が除かれたのは、添田唖蝉坊の影響だと万年小学校校長坂本氏が語ったそうです。p31
添田唖蝉坊の歌は全体的に単調ですが、現代のコピーライターのように、耳に残る句があります。
それが人口に膾炙され、流行した秘訣でしょうか。
マックロ節の『まっくろけ~のけ』とか、ノンキ節の『あノンキだね~』とか、『ああわから~ない、わからない~』とか。
添田唖蝉坊の息子添田知道(そえだともみち)の東京節なんかも、『パイのパイのパイ』が耳に残りますね。
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