『藤岡吉平伝』(大正7年刊)

2013-04-24 19:44:32

『藤岡吉平伝』(大正7年刊)は、中流商人として豊かに暮らしていた藤岡吉平が、商売をやめ、その財産をなげうって、伯耆(鳥取県中部・西部)・因幡(鳥取県東部)地方で明治12、3年頃まで普通に行われていた、間引きの悪習をやめさせた事績を紹介する伝記です。

当時まで、伯耆・因幡地方では丙午の年に生まれた子は成長すると、不肖の子として必ず親に迷惑をかけるという俗信があり、その年に生まれた子はほとんどが殺されていました。p4

この藤岡吉平も丙午の年の生まれで、自分と同じ年生まれの子がほとんど殺された事実を憂え、なんとかこの悪習を絶とうと思い立ちます。

藤岡吉平は倉吉町大字西仲町に生まれ、幼名を百蔵といいました。

藤岡吉平の母は子を産んでまもなく死に、父は後妻を貰い、吉平は幼くして父儀兵衛の姉夫婦に養子に出されます。

しかし吉平が12歳のとき、その姉夫婦と死に別れ、孤立した彼は親族の因幡国気多郡船磯村房尾宇七郎の所で奴僕となります。

この宇七郎はとても無慈悲な男で、吉平に苦役を与え、三度の食事も十分に与えなかったそうです。

吉平はついに家出して、養父の縁者で当時伯耆国に一、二を争う富豪であり、大庄屋も勤めた久米郡の岩本廉蔵氏を訪ねました。

この岩本廉蔵は当時30歳前後で侠気があり、また岩本廉蔵の弟利平は、藤岡吉平がまだ養家にあった頃、倉吉町の寺子屋に学問修行に行くことになり、吉平の養父の家に寄宿していたので面識がありました。

こうして吉平は、岩本家に召し使われることになり安堵します。

藤岡吉平は岩本家で安穏に暮らしますが、このままでは養家再興を果たせないと思い、岩本家を出て職を求めます。

17歳で伯尾山の陶器製造所で下絵を描く仕事をし、18歳のときには木綿売買の仕事をし、19歳の春には紺屋の染物の職工になります。

19歳の秋には津山に至り、土人形作りを学び、20歳のときには鉄山の事務所で書記になり、21歳では倉吉で印判彫刻を学び、24歳で家を買い、妻を迎えて養家を再興したのが明治2年でした。

その後生活に余裕のできた藤岡吉平は、故郷の悪習を憂え、弘化4年の丙午の年に生まれた自分も、もし情深い父母でなかったなら殺されていたことを思い、故郷の悪習改革に乗り出します。

藤岡吉平の父母は、我が子を救おうとして産湯盥(たらい)に入れて一旦玉川(倉吉町中央を流れる小川)に流し、これを捨てたことにして伯母に下流で拾い上げてもらい、名を改め、生年月日も変えて養育したといいます。

(私はこの部分を読んで、モーセやイエスの赤子の頃の故事を思い出しました。)

明治14年以降、藤岡吉平は因幡・伯耆の両国を東奔西走します。

藤岡吉平は妊娠した者のいる家の、経済状態や家族構成や何からを手帳に記して訪ね歩き、罵詈雑言を浴びながらも、数百年続く悪習に立ち向かったそうです。

堕胎や嬰児殺しの疑いのある者は警察に届けて投獄し、その累は医師、産婆にも及び、ついにその悪習は絶たれる方向に向かいます。

しかし藤岡吉平の家産は尽き、妻カネは夫の留守中に古着の行商を営み、かろうじてその日を送ることができたそうです。

それでも二人の子女を養い、夫の旅費を捻出するには足りず、家屋宅地を売りますが、それも数年で尽き果てます。

故郷の悪習を断つためとはいえ、家族に困窮を強いるのは忍びないとして、藤岡吉平は古美術品の模写模刻をして一時は生活に余裕も出ますが、その余裕も明治21年には困窮が優るようになります。

ここにおいて藤岡吉平は寄付を募り、講演会を行うようになります。

明治36年、藤岡吉平は思う所あって県外諸国を流浪するようになり、38年に郷里に戻ります。

その翌年が丙午の年だったからだそうです。

藤岡吉平は、いくら間引きの悪習を改めさせようとしても、貧困が原因で起こるものは救えないとして、倉吉町妙寂寺の住職と相談し、妙寂寺内に孤児院も作りました。

明治39年10月26日、藤岡吉平還暦の年、中風の再発で亡くなります。

天水晶の心臓

過去に書いたものでも置いて行こうかと思います。

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