寺子屋時代の教育と『往来』

 2014-01-04 20:13:46

『往来物に依つて見たる徳川時代の庶民教育』 岡村金太郎 著(大正10)の紹介です。

寺子屋とは明治に学制が整えられるまでの小学校のようなものですが、その寺子屋で使用した教科書を『往来』といいます。

『往来』の初めは平安時代の藤原明衡(あきひら)の著した『明衡往来』で、この時代の『往来』は、後の寺子屋のように初等教育の教科書のようなものではなく、『往来』の文字が表すように、手紙の書き方を教えるものでした。

僧侶が寺院で初等教育を教えることは室町時代に始まり、武士も庶民も貴賎の別なくこれに学んだそうです。

しかしこれが江戸時代になると、仏教よりも儒教が勢力を持ち、武士階級は僧侶ではなく儒者から学ぶようになったので、僧侶の多くは庶民向けの寺子屋に力を注ぎました。

寺子屋が庶民の間で一般的になると、僧侶ばかりでなく、神道の神官や、浪人や、医師等様々なものが自宅に私塾を開き、それに寺子屋の名を冠するようになります。

女性が寺子屋を開くこともありました。

寺子屋の教師の数は普通一人で、稀に助手を置き、生徒の数は20~30人、男女の比率は女子の方が少なかったそうです。

寺子屋での師弟の関係は、愛情に溢れているのが普通だったようです。

『往来物に依つて見たる徳川時代の庶民教育』(大正10)によれば、寺子屋では学問だけでなく行儀や道徳も教え、『今日((大正10年))の教育は学校ではほとんど顧慮しないで、家庭に一任してあるかの観がある。ために一般青年が往々不躾((ぶしつけ))の謗((そしり))を免れないのは嘆かはしきことである。』p34とあります。

同書によれば、江戸時代の寺子屋教育と対比して、今(大正時代)の教育に疑問を投げかけます。

寺子屋時代には難しいものから教えましたが、明治・大正時代の小学校では、現代と同じように簡単なものから順に教えました。

しかし著者は、大人になると物を覚えるのに苦労するが、小さな子供の頃にこそ楽に知識を吸収できるとして、寺子屋時代のように、難しいものを幼い頃から教えた方が良いのではないかと述べています。p40

寺子屋の教科書では、本文の内容から連想されることを、その余白に様々載せていて、知らずしらずの内に各種の知識を吸収出来るようにしているので、これも取り入れた方が良いのではないかと述べていますp41 

天水晶の心臓

過去に書いたものでも置いて行こうかと思います。

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