台湾原住民の昔の姿

2014-01-03 20:03:28

台湾は大航海時代にオランダの支配を受け、その後中国の清王朝の初期に、鄭成功(国姓爺)が台湾からオランダを追い払います。

この鄭成功の母は日本人で、鄭成功も幼い頃は日本で過ごしました。

鄭成功の父は漢民族で、朱印船貿易に関わっていましたが、その後妻子を連れて中国に渡り、明に仕えます。

鄭成功は明の皇帝に気に入られ、明の国姓である朱を名乗ることを許されます。

しかしその明も清に滅ぼされてしまいます。

明は漢民族の王朝でしたが、満州族の清に敗れ、鄭成功は反清復明を唱えて台湾に拠点を築きますが、鄭氏の台湾統治も20年余りで終わりを告げます。

その後台湾は清の支配下に入り、日清戦争の結果、明治28年(1895)日本による台湾統治が始まります。

大正4年の『台湾蕃族図譜』によれば、台湾原住民に対する生蕃や蕃族という呼称は、中国が伝統的に台湾原住民の呼称を蕃としていたので、日本もこれを踏襲したそうです。

中国人は、この蕃を土蕃と野蕃とに分類し、野蕃は首狩りの風習を持ち性質の烈しいもの、土蕃は性質の温良なものを言ったそうです。

野蕃は主として山地に暮らし、土蕃の主なものは西海岸の平地に暮らしたそうです。

海岸の平地に暮らしたことから、土蕃を平埔蕃(へいほばん)とも称したそうです。

オランダが治めたのはこの平埔蕃で、オランダが去ると鄭成功がこの平埔蕃を治めて熟蕃と呼び、野蕃を生蕃と呼んだそうです。

この熟・生の呼称は、古来苗族(ミャオ族=中国の少数民族)の帰服の有無を、熟苗・生苗と呼び習わしたのと同じものです。

しかし熟蕃・生蕃と言っても、その種族は複数に分かれ、『台湾蕃族図譜』では、タイヤル・ブヌン・ツオウ・パイワン・アミ・ヤミの六種に分けています。

タイヤルは彼等の言葉で『人』という意味です。

ブヌンも彼等の言葉で『人』という意味です。

ツオウも彼等の言葉で『人』という意味です。

パイワンはその種族に対する彼等の自称です。

アミは彼等の言葉で『北』を意味し、アミの南方の卑南蕃(パイワン族の一種に数えますが、近隣の種族の影響により、習俗が彼らと異なるそうです)がアミ族を指していう語で、アミ族の自称はバンツァです。

中国人は古くから、アミ族を阿眉蕃と呼ぶそうです。

ヤミは自身の住む地名をヤミカミと称すので、地名に由来してヤミ族と呼ぶそうです。

タイヤル族の創世神話では、大覇尖山方面、又は雪山(西洋の呼称はシルビア山・日本統治時代の呼称は、一番高い新高山の次に高いという意味の次高山)方面の巨岩から祖先が出てきたそうです。

ブヌン族の創世神話では、祖先が太古ナモガンの地にあるときに洪水に遭い、玉山(新高山)、又はシンカン山に逃れ、その山頂に暮らしたのが始まりだそうです。

ツオウ族の創世神話では、太古玉山(新高山)に暮らした祖先が別れ、一群は東方に去ってマーヤと称したことから、ツオウ族は日本人のことをマーヤと呼び、日本人への信頼が厚いそうです。(日本だとヤマト・ヤマタイが思い浮かびますが、さらに東のマヤ文明の方が音が似ているかな。)

別の一群は阿里山方面に移住し、ツオウ族になったといいます。

パイワン族の創世神話では、太古祖先は土器と共に大武山に降臨したという神話と、山上の巨岩から出たという神話の2つを持っていたそうです。

またパイワン族の系統である卑南蕃の神話では、彼等の祖先は竹の節から生まれたそうです。(かぐや姫みたいですね。)

アミ族の創世神話では、太古彼等の祖先は海嘯(かいしょう)に遭い、長方形の臼に乗りラガ山に漂着したと伝え、また南部のアミ族の創世神話では、カワ山に漂着したと伝えます。

ヤミ族の創世神話では、山から出たというものと、漂着したと言うものの二種を伝えるそうです。

熟蕃(平埔蕃)は、早くからオランダの影響を受けてクリスチャンが多く、その後清の支配により習俗や言語が中国化され、彼等本来の言葉は死語が多いそうです。

日本統治時代の台湾では、熟蕃は本島人(原住民以外の、台湾に住み着いた人たちの子孫。主に中国系。現在は本省人と称する。)と同等に取り扱われ、法律上も同じ権利を有しましたが、それ以前の清国統治時代では、熟蕃は賤民として取り扱われたそうです。

天水晶の心臓

過去に書いたものでも置いて行こうかと思います。

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