大正時代の登山家

2010-08-12 00:43:58

大正時代の登山家で、近代登山の草分けといわれる板倉勝宣は、大正12年1月、27歳の若さで富山県(北アルプス)の立山に登り、凍死しました。

その板倉勝宣が大正7年、22歳のときに校内誌に載せた『五色温泉スキー日記』を読むと、今の若者となんら変わらないなと思います。

板倉は友人二人と、汽車で五色温泉スキー場へ旅行に出かけます。

友人はジラフ(キリン)のような小池と、汽車が出るとすぐに眠ったくせに、夜中12時頃に騒ぎ出してトランプを強いる小林でした。

三人はスキーに出ると、板倉と小林はどうにか滑れたものの、下に降りて上を仰ぐと、小池が雪煙を上げて身体が見えなくなったり、また見えたり、また雪煙が上がったり、板倉は五色温泉スキー日記に、『神出鬼没でじつに自由なものだ』と書いています。

大正時代の若者が書いた文章も、現代の若者とそんなに違いはありませんよね。

他にも板倉らしさを本文から抜粋してみます。

『人夫の後ろから登って行った。案の定大変すべる。もとよりスキーをはいているから滑るつもりできたのだが、登る時に滑るのははなはだ迷惑だ。』

『小池は棒のごとくまっすぐになってくる。そして相変らず忍術を盛んにやって姿を隠す。そのあとにきっと孔があく。忍術と孔とは何かよほど深い関係があるらしい。』

『板倉の滑り方はなかなかうまいもんだ。うそじゃない。本人がそういっている。』

『夜は炬燵にあたりながらトランプをやった。』

『朝起きて見ると烈しい風だ。雪がとばされて吹雪のように見える。今日は孝ちゃん(宿屋の息子)に裏の山へ連れて行って貰う約束をしたのでなんだか少し恐ろしくなった。それでもみんなやせ我慢をして決して止めようとはいわない。スキーに縄を結びつけて滑り止めを作った。板倉が三人の弁当を背負ったがきっと潰れるにきまっている。』

『東京からお連れさんがきたというので、誰だろうと待っていると坊城と戸田がきた。今日から風呂で振動的音声が聞えて頭にひびく。誰だか知らないが聞いたような声だ。何しろ二人増したのでにぎやかだ。』

『この晩坊城が甘酒の罐詰を開けた。ほんとに好きなのは御当人と戸田ぐらいなものだが、例のがんばりで塩をむやみと入れたのでしょっぱくてはなはだ迷惑だ。小池らは胸が悪いからお湯をくれといって甘酒を侮辱したので、坊城の頭が傾いたと思うと断然うまいとがんばった。瘠我慢で戸田と二人でとうとう呑みほした。恐ろしいがんばり方だ。戸田はローマ法皇のような平和論者だからおつきあいをしていたが、坊城は唯一の味方を得たつもりで東京に帰ったら家に甘酒をのみにこいと誘っていた。いまに甘酒に中毒してさかだちしても駄目だ。』

『英国人は英語がうまい。今日は宿の前で滑った。今日きた異人は独二人、英二人だ。盛んにドイツ語の会話をやるがなかなかうまいもんだ。』

『オーストリアのウインクレル氏は二十九の元気な青年だ。「今日おともを・さして下さい」と英語式日本語がつい出た。すると「ええ、だけどちょいと近くですよ。余り面白くもありません」と流暢な日本語が返ってきた。後の面々の年は外人だから分らない。何しろ三十以上四十ぐらいの人もいるようだ。孝ちゃんも一緒で日英独の山登りは面白い対照だ。』

『「ここで食べましょう」と各自場所を見つけた。大木の切株が二つある。一つは独が占領した。日本も他の一つをとった。英はまた他の場所によった。眺めると独英日が別々に陣をとっている。「戦争をしようか」と三人で笑った。頭上には硫黄を運ぶケーブルが動いている。ウ氏がつるさがってくる飛行船のような薪のたばを指して「ほらツェッペリン」と遠くのほうから愛嬌をいう。』

この五年後、大正12年の1月に、板倉は雪山で凍死します。

生命力に充ち溢れた若者があっけなく。

人生とは本当に不思議なものです。

そして同じ大正12年9月には、関東大震災が起こります。

天水晶の心臓

過去に書いたものでも置いて行こうかと思います。

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