臨済録要約

2010-07-24 23:36:00

要約者の前置き。

私の臨済録の解釈は、外形に囚われてはいけないということです。

権威ある経典というだけで、書いてあることを疑いもなく受け入れ、釈迦の言葉とされるものを、釈迦の言葉と言うだけで疑いもなく受け入れることを臨済は批判しています。

仏の教えとは本来、修行者が仏陀となるための道筋を示すものです。

それなのに修行者の多くは自らが仏陀になろうとは思わずに、経典や仏像を崇拝しているだけです。

仏も人、我も人、仏陀とは人に与えられた称号にすぎないのに、多くの修行者は称号に目を眩まされています。

長い歴史の中で神話化された仏陀は、全能の神のような神通力を持ちますが、そのような不思議な力は阿修羅も持っています。

ならそれらの威力を相殺して、人と同じ程度に制約された仏陀と阿修羅を考えてみればどうでしょう。

力を崇拝するだけなら、仏陀ではなく阿修羅を崇拝すれば良いわけです。

仏典や仏像という神話的な権威に魅せられた修行者は、その中身ではなく、表現された外形、つまり神秘的な神通力の部分に幻惑されているわけです。

そして仏陀の本質は神秘的な神通力という幻想の外にあるということを教えるために、臨済は修行者に対して仏の境(きょう)を表して見せたり、涅槃の境を表して見せたり、様々な境を見せて驚かせますが、境は千変万化しても、結局肉体は異ならないと教えます。

釈迦も臨済も修行者も、特別な物は何もなく、ただ人の境が変化して仏陀になるのだと教えます。

(ちなみに悟ったつもりになっている相手に自分の境を変化させて相手をやり込める話は、臨済録だけでなく道家の書の中にも見られます。二千数百年前の淮南子や列子等に載る、巫者をやり込める列子の師匠の壷丘子林の話です。)


***


【臨済録(りんざいろく)要約】

臨済録とは、唐の時代に生きた禅師、臨済の言行録です。

臨済は臨済宗からは宗祖とされます。

括弧内は要約者。


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弟子の僧達が、師である臨済(りんざい)に仏法の大意を問いました。

臨済はこれを一喝して答えとしました。

僧は師に礼拝で返しました。

座主(ざす)

「三乗(声聞・縁覚・菩薩)、十二分教(仏典を12種に分類したもの)というものは、仏性を明かすものですよね」

「それらで荒草に鋤を入れることは出来ない」

座主

「しかし仏様がまさか人を騙しはしないでしょう」

「仏がどこかに居るのか?」

座主は言葉が無くなりました。

臨済は他の僧の質問の邪魔だと言って、老僧の座主を追いたてました。

ある時、麻谷(まよく)山の僧が臨済に問いました。

麻谷僧

「千手千眼の観音菩薩の眼のうちで、どれが正面の眼でしょうか」

「千手千眼のどれが正面の眼か、お前がすぐに答えてみよ、早く言え」

麻谷僧は臨済を引っ張ってその座から下ろし、代わりに自分がその座に着きました。

しかし麻谷僧は、すぐに答えられませんでした。

「ためらったな」

今度は臨済が麻谷僧を引っ張ってその座から下ろし、代わりに自分がその座に着きました。

麻谷僧がそのまま立ち去ったので、臨済もその座を降りました。

上堂した臨済に僧が問いました。

「仏法の大意とはいかに?」

臨済は手にした払子(ほっす)を起こしました。

これに僧は一喝して応えました。

しかし臨済は手にした払子で僧を打ちました。

僧は重ねて

「仏法の大意とはいかに?」

臨済はまた手にした払子を起こしました。

これに僧はまた一喝して応えました。

臨済もまた一喝しました。

僧はとまどいます。

すると臨済は、手にした払子で僧を打ちました。

「我、20年黄檗(おうばく)先師の元にあり、その間三度仏法の大意を尋ねて、三度その杖に打たれた。今、さらに我を打つ者はおるまいか」

「わたしが師を打てます」

臨済は棒を彼に差出しました。

僧がそれを受け取ろうとして近づいたときに、臨済は素早く彼を打ちました。

臨済禅師の言葉の要約

修行者に言う。

自信を持て。

修行者の多くは外に向かって祖仏の知識を求めるが、それは各人の心の中にある。

それを得れば、君たちは釈迦と変わらない。

しかしこの好機を無駄にするなら、君たちはまた輪廻の中で、驢馬や牛の胎に宿るだろう。

君たちは仏を自らの外に求めようとするが、仏とは名句(名称)に過ぎない。

仏祖とは真理を求めた者である。

君たちも真理を求めた者である。

求道者が真理を得れば、そこで完了して仏となり、真理を得なければ輪廻を繰り返す。

世界に安らぎはなく火宅(法華経で、この世界を朽ちたぼろぼろの家が燃えている様に喩えること)のごとし。

この世界は長く住むべき所ではない。

この世界は刹那(せつな)毎に、老幼貴賎を問わず多くの者が死んで行く。

もしそんな世界で祖仏と同じでありたいと願うなら、外に助けを求めてはいけない。

経論家は仏身に三種ありと言う。

法身仏(ほっしんぶつ・真理そのものである仏の本体)。

報身仏(ほうしんぶつ・過去からの修行によって成道した、普通言われるところの仏)。

化身仏(けしんぶつ・応身仏ともいう。相手に応じた姿で現れる仏)。

こんなものは、皆名句(名称)に過ぎない。

時を惜しめ。

禅を学び、道を学び、名句を認め、仏を求め、祖を求め、善智識を求めて時間を無駄にするな。

皆自己の中に一個の父母を持つ。

さらに己の外に何を求めるというのか。

今時の学者は検証しようともせず、目にしたものは何でも口に入れる。

こんな者は出家とは言わず、俗家と呼ぶべきだ。

仏魔、真偽、凡聖を弁じ得る者こそ、真の出家と呼ばなくてはならない。

修行者は名句(名称)に囚われて、凡聖の名につまずく。

各種仏典もただの名句に過ぎないのに、それを悟らない者が、色々な解釈を生み出して自身は輪廻に落ち込んで行く。

もし君達が聖を愛するなら、それは聖という名に過ぎない。

一念が自らを解放し、いたる所で解脱する。

それらは互いが主従となって、同時に現れる。

一は三、三は一である。

(一は三、三は一の説明は後に出てきます。)

仏典の言葉とは夢幻にすぎない。

仏の境(きょう)は自らが仏の境だとは言わない。

かえって自らが境に乗じて外に出るのだ。

もし人が来て我に仏を求めるなら、我が心は清浄の境に化身して出る。

我に菩薩を求めるなら、我が心は慈悲の境に化身して出る。

我に菩提を求めるなら、我が心は浄妙の境に化身して出る。

我に涅槃を求めるなら、我が心は寂静の境に化身して出る。

境は千変万化すれども、肉体は異ならず。

物に応じて形を現(うつ)す、水中の月の如し。

真理が外にあると思い、外物に惑わされるな。

外から来る物には、かえってこちらの光を照らせ。

師の言葉を一言一句守り、そこから踏み外しはしないかと、物を語るにも氷上を渡るロバのようではいけない。

表面を形のみ真似るより、内なる大善知識に則して語ればいい。

そうすれば仏を謗(そし)り、仏典を排斥しても、業(ごう)にはならない。

相(そう)が性(しょう)と同じ姿をしていれば、それは祖仏と同じである。

性と相が異なれば、それは応病与薬の応身(化身)である。

(性(しょう=心の本体))

(相(そう=姿=心が様々な姿に変化した異体))

仏とは幻にすぎない。

釈迦とは老僧にすぎない。

仏を求めても釈迦を求めても、魔に囚われるだけだ。

僧の中には仏は究極だという者がいる。

三大阿僧祇劫という永い時を修行して成道(じょうどう)したというが、釈迦は僅か80年生きて、もうどこにも居ないではないか。

我が生死と何が違う。

また仏には32相80種の身体的な特徴があると言うが、釈迦はその特徴により、将来仏となるか、転輪聖王(偉大な王様)になるか、どちらかだと言われていたではないか。

まさか転輪聖王と仏とが、同じものだとでも言うのか。

これらの特徴もまた、意味がない。

仏には六種の神通力があるという者がいる。

この神通力を以って仏とするのか。

しかし神通力なら、神々も、仙人も、阿修羅も、鬼も持っているではないか。

これらも仏と呼ぶつもりか。

阿修羅が帝釈天と戦った時には、戦いに敗れて8万4000の眷属と共に、蓮穴に隠れたではないか。

真の仏に形は無く、真の真理に相(すがた)は無い。

真の修行者は仏を追わず、菩薩、羅漢(聖者)を追わず、天地が覆っても惑わない。

真理とは空(くう)の相(すがた)をして、変化すれば有となり、変化しなければ無のままだ。

人に惑わされるな。

仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢(聖者)に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親族に逢うては親族を殺せ。

(それらに依拠するなという意味です。それぞれが何を表しているかは後に出てきます。)

何かに依拠せずに我が元に来る者はいない。

そんな病を治し、縛りを解く為に我は打つ。

諸方より来る者は皆仏を求め、真理を求め、解脱を求め、三界(欲界・色界・無色界)を出離することを願う。

しかし三界を出てどこに去ろうというのか。

仏祖は名句にすぎず、貪りの心が欲界、怒りの心が色界、愚痴の心が無色界である。

三界は自ら我は三界などとは言わない。

こちらがそれらを酌度(しゃくど)して、三界という名を与えるのだ。

衣を認めてはいけない。

衣が動くのではない。

人が衣を着るのだ。

清浄の衣、無生の衣、菩提(悟り)の衣、涅槃の衣、祖の衣、仏の衣、あらゆる声名文句(しょうみょうもんく=名称)とは、衣服の変化に他ならない。

衣に囚われている内は、生死の輪廻からは抜けられない。

先人の言葉を書き留めて、これを貴重品のようにしまい込み、一々もったいぶるのは枯れた骨から汁を吸うようなものだ。

経典中から字句を取り、自分に都合のよいような勝手な解釈を施すのは、糞の塊を口に含み、それを他人に吐き出すようなものだ。

それは俗人が伝言を口頭で伝えて行くようなもの。

(伝言ゲームは内容が正しく最後尾まで伝わらない。)

仏とは心が清浄であることをいう。

法(真理)とは心が光明であることをいう。

道とは妨げることのない浄光をいう。

この三とは、即ち一。

皆名句に過ぎず、実体は無い。

仏になりたければ万物に従ってはいけない。

心が生じれば全てが生じる。

心が滅すれば全てが滅する。

心が生じなければ罪も生じない。

心が生じなければ世俗も仏道も生じない。

心が生じなければ仏も真理も生じない。

心が生じなければそれらが失われることもない。

名句(名称)は自ら定めて名句になりはしない。

君達が名句を定めたのだ。

父を殺し、母を害し、仏身から血を出し、和合僧(仏教教団)を破し、経像(経典仏像)を焼くこと等を、五無間(ごむげん)の業(ごう)という。

無明(むみょう)を父という。

心に一念の生滅・生起もしないことを、父を殺すという。

(無明=真理に暗いこと。)

愛を貪ることを母という。

欲界で愛を貪ることを、一切は空(くう)であると捉えるとき、母を害すという。

清浄法界(清浄なる真理の世界=仏の心境)において、一念の光も生じさせず暗黒のままでいることを、仏身から血を出すという。

煩悩を空であり、実は依拠する所無しと捉えることを、和合僧を破すという。

因縁を実体の無い空、心を実体の無い空、法(真理)を実体の無い空と見て、心惑わされない状態を、経像を焼くという。

これら五無間(ごむげん)の業(ごう)を造る者こそが、解脱を得る。

君達は我れが説くことを拠り所としてはいけない。

我が説には我れが拠り所としたものは何もないからだ。

それはたまたま虚空に絵を描いてみせ、色を塗ったようなものだ。

仏を究極の貴いものとしてはいけない。

それは便所の穴のようなものだ。

菩薩・羅漢も枷(かせ)、鎖、人を縛るものにすぎない。

経典の教えも皆このようなものだ。

その時々の病を治す薬でしかなく、それが真理というわけではない。

仏を求めているうちは仏は得られない。

道を求めているうちは道は得られない。

君達にどれほど知識があっても、君達が王や大臣であっても、そんなものはどうでもいい。

真理の探求とは、論争して熱くなることでも、論破して他説を挫くことでもない。

(論争好きの孟子やパウロに聞かせてあげたい言葉ですね。)

天水晶の心臓

過去に書いたものでも置いて行こうかと思います。

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