母の近況
母の様態が悪化する度に方法を考えて、うまく行けば喜び、効果が見られないと落ち込みの繰り返しだ。
母は今88歳。
2019年の12月に脳梗塞で入院、二ヶ月半の入院の予定を、母の希望で二週間で退院。
意識障害(譫妄と言うらしい)が二ヶ月以上続いたので、病院から処方された血管を広げて血圧を下げる薬と、血液を固まりにくくする薬と、血糖値を下げる薬と、胃腸薬の四種類のうち、血糖値を下げる薬を抜くことにした。
母は糖尿病だけど、脳(の回復)には糖分が必要だと思った。
すると母の意識が認知症状態(譫妄)から正常になり、脳梗塞で入院する前の状態に戻り、ご飯も自分でよそって勝手に食べ、包丁を使ってりんごも切って食べれるようになり、雨戸も開け閉めしてくれて、トイレも一人で行き、階段も一人で上がれるまでに回復した。
2020年4月、一人でトイレに行った母が転んで頭を打ち、急性硬膜下血腫で入院。医者の説明では、普通なら頭部内部の傷は、自然治癒するレベルだったのが、脳梗塞の予防薬の血を固まりにくくする薬のせいで、脳に血が溜まり続け、脳全体が片側に押しやられて圧迫されている。手術をしても助かる見込みは五分と五分だと言われた。
俺は説明を聞く時間も惜しいので、即断して手術してもらった。
頭蓋骨を外して血を抜く手術、再度頭蓋骨を戻す手術と二度の手術。
俺は母の手術の度にお地蔵さんの前で土下座して母の無事をお願いした。
もちろん仏壇と、父の遺影と、先祖の墓と、母方の祖父母の霊にも、母の無事をお願いした。
自分のことだと全然信心深くないのにね。
母の二度の手術は成功するも、(母の最初の手術後初めて発した言葉が「勝成に会いたい」だったというのを医者から聞かされて泣いた)、しかしその後の経過が良くなく、母は日に日に衰弱し、コロナの影響で面会も禁止、電話で母と話すことさえ原則禁止だった。
俺は覚悟を決め、どうなってもこちらが責任を負うからと担当医に掛け合い、担当医の「君が連れて帰って面倒見てもお母さんは絶対に3日で死ぬよ。運良く生き延びたとしても、一生口からは食べられないし、一生歩けないよ」というかなり高圧的な心無い言葉にも怒りを隠し、担当医が、お母さんは口から飲み込めないので胃に管を繋げる胃ろうの手術をするべきだと強く勧めるも、まずは自分で試してみてからと、口には出さずに内心思い(医者の心象を悪くして退院に支障が出てはまずいので)丁重に断って、入院から5週間後(6月1日)に退院させると、母は死にかけの状態で、言葉は喋れず、こちらの言葉に片手の手呼びがピクッと僅かに反応するだけで、全身赤黒く変色し、頭部の手術跡も少し開いたままだった。
二度、訪問看護専門の病院に申し込むも、その度に母の担当医に潰された。
しかし俺は、医者を盲信して母をこのまま入院させておくと、二度と生きては会えないと思い(父のときにそれで失敗して、父は病院で死んだ)、母が家に戻ると、母の生きる気力が戻ることは分かっていた。
俺は脳梗塞の予防薬である血が固まらない薬に懲りたので、母に一切の病院の薬を与えなかった。
初日に水を飲ませ、介護の栄養ゼリーを食べさせた。
少し飲んで少し食べてくれた。
しかし脳障害から、母の上半身は様々な方向に倒れては、起き上がりこぼしのようにもとに戻る。
その反動で色々な方向に進んでは、色々なものに頭をぶつけようとする。
このままではトイレや洗濯等で眼を離した僅かな隙に、母が死んでしまうと思い、姉に電話して母の状態を説明し、十日間だけでもいいから手伝いに来て欲しいと頼むもあっさりと断られ、切羽詰まっていたので縁を切ろうかと思った。
退院初日の夜、母の左手が蛇のように暴れ出し、頭部の開きかけた手術跡を掻きむしろうとするのを、俺は泣きながら朝まで母の左手を抑え続けた。
二日目の昼間、少し目を離した隙に、母が大きなコブを作って「頭打ったー」と泣いていた(母は少しだけ言葉が戻って来ていた)。
俺はもう一度姉に電話して、一週間だけでもいいから手伝いに来てと頼むも、またあっさり断られ、本当に切羽詰まっていたので縁を切ろうかと思った。
俺は無い知恵を絞り、母の移動範囲すべての硬いものに柔らかい布を巻いていった。
その夜に母がコンビニのサンドイッチが食べたいと言うので、急いでたまごサンドを買いに行った。
母はたまごサンドを食べてくれた。
その後母は言葉を失い、意識が朦朧とし、起き上がりこぼしのように朝まで暴れ続け(疲れ切って眠るまで続く)食事もしてくれない状態が続いた。
俺は母の意識が朦朧とし、言葉が離せなくなったのは、脳に糖分が足りないせいだと考え、母が以前喜んで食べてくれた、俺の20代の貧乏時代の貧乏食である小麦粉焼き(仮名)を食べさせた。
すると意識がはっきりしはじめ、言葉も戻り始めた。
その頃は一口食べては一時間眠りを繰り返す感じ。
その後も俺の試行錯誤(一緒に母が好きだった未来少年コナンや、母をたずねて三千里を見る等)の末、退院から一ヶ月と9日後の母の誕生日には、入院前よりも、意識も身体も健康になっていた。
その後の経過は以前書いたものから抜粋。
『6月1日に退院の後、7月半ばまでには、母はイスに座って一人で食事出来、拘縮していた右手も回復し、全身の赤黒い肌も正常に戻り、意識も言葉も正常になり、一人でトイレに行けるようになり、歩行器や杖で庭を歩けるまで回復した。餅も食べれるようになった。
しかし母が一人でツッカケを履いて庭に出ることが出来るようになった直後、老人の罹患しやすい帯状疱疹になり、神経痛で一ヶ月寝込んで上半身も起こせなくなった。
一ヶ月で神経痛が収まると、俺は母の手を引いて再び歩く練習をさせ、三週間後、また一人でツッカケを履いて庭に出ることが出来るまで回復したのに、その直後、俺が台所で洗い物をしていると、トイレから歩いてきた母が入り口で転んだ拍子に帯状疱疹の神経痛が再発した。
三週間後、母は歯医者の定期検診に行く日だからと、頑張って起きてイスに座り、一人でご飯を食べ、テレビを見ながらそこに三時間程座り続けた。
合間に「大丈夫?」と母に効くと、その度に「大丈夫」と笑顔で返され、せっかくやる気を出している母に水を差すのもなんなので、母に任せていた。
しかし午後車椅子に乗せて歯医者に向かう途中、母は疲れて眠ってしまった。
寝起きの母をおんぶして診察台まで運び、待合室に戻ってじっと待っていると、優しい看護師さんが俺に世間話をしてくれた。
母の診察が終わると、俺は院長に呼ばれ、次から連れてこないでくれと遠回しに言われた。
寝起きの母は無反応で、口も大きくあけられなかったらしく(若い医師の手に負えず、院長が手伝ったらしい)、「治療行為もまともに出来ないし、何かあった場合にこちらの責任問題になるから、次からこういう状態のときはキャンセルして」と言われた。
俺は88歳の母が、朝は体調が良くても30分後にどうなってるかは誰にも分からないと伝え、以降の定期検診を辞退した。
その日の治療費は800円だった。
口を少ししか開けられなかった母がどのように検診されたか知らないけど、母はよほどショックだったのか、この日からまともに喋れなくなり、体調も悪化して、意識も不明瞭が続いている。
6月頭に死にかけで退院させた直後よりはましだけど、それに近い状態。
母は歯医者でよほどショックなことがあったのか、その日からふさぎ込んで元気がなくなり、喋らなくなり、運動しなくなり、あまり食べなくなり、神経痛も悪化してほとんど動けなくなった。
その日から間もなく、母は重度の認知症になってしまった。
その状態が回復しないまま一ヶ月が過ぎた頃、俺はこう考えた。
母の食事量が、以前は一日4食プラスおやつ3食くらいが普通だったのに、この頃は一日2食で量も少なかったので、もしかしたら以前の脳梗塞のときと同じように、脳に栄養が足りていないのではないか。
それが今日。
なので今日からバナバ茶を控えてみよう。』
以上抜粋終わり。
その後俺の読みは当たり、母は順調に回復し、12月の中頃には、言葉も流暢になり、一人で食事も出来るように回復した。
しかし寝たきりの状態が長かったので、まだ立てないけど、それ以外は入院前のレベルに戻った。
2月2日の節分には母を車椅子に乗せて一緒に巻きずしを買いに行き、母は椅子に座ってカップのお茶を左手で飲みながら、右手で巻きずしをこぼさずに器用にたべれる程だった。
しかし2月3日から母が体調を崩し、言葉が喋れなくなった。
そんな中、2月6日に、母の差し歯の下の前歯五本がごそっと抜けた。
数日待っても言葉が戻らないので、また言葉が戻るようにと母に小麦粉焼きを作ってあげた。その日は二切れ(ティースプーンに乗る位×2)しか食べてくれなかった。
2月7日、この日は小麦粉焼きを半分(ティースプーンに乗る位×10)食べてくれた。
そのせいか、この日母は「水が飲みたい」「ミカン食べる」と二言も喋ってくれた。言葉は戻り始めていた。
翌2月8日、歯医者に電話すると当日見てくれるという。
母の入れ歯は上部が総入れ歯(というのか?)、下部の入れ歯が前歯の差し歯五本の両端に金具で引っ掛けるやり方。
俺は母が6月1日に退院してからずっと、下の前歯が心配なので、下の前歯を抑えて金具を外していた。
母の退院後初めて歯医者に行ったときに、院長先生にどうやって母の入れ歯を外すのかやってみてと言われて、いつものやり方で前歯を抑えて外すと、院長先生に、そんなやり方より、そのまま左右の金具を指で持ち上げたほうがいいと指導されたので、そのやり方をしていたら前歯の差し歯がごそっと抜けた。
仕方がないから、二度と関わりたくなかったけど、またその歯医者に母を連れて行くと、院長先生が言うには、差し歯をくっつける治療は出来ないと言うことだった。
理由は、母と意思の疎通ができないからだと言われた。
さらに上下とも総入れ歯にしたら便利だけど、意思の疎通ができないからそれも無理だねと言われた。
俺が「つまり、もっと早く総入れ歯にしておけばよかったってことですね?」と言うと、院長先生は困ったように、「そうとも言う」と言って向こうに言ってしまった。
そこは母の二十年以上前からのかかりつけの歯医者で、6月1日の退院後、7月に母を連れて行ったときには、母は一人で歩いて治療台に行き、治療が終わると歯医者の皆さんに「ありがとう」と言って、院長先生も側にいたのに、釈然としない。
歯医者は空港にあるので、帰り際551の豚まん(コロナの影響で冷凍のしかなかったし、いつもは行列がすごいのにガラガラだった)を買った。
あとその551の側の名店街的な場所で、ジャイアントドリームポッキーを見かけたので買った。
十年くらい前から、空港に行く度にいつか大きいポッキー買おうねと母と言いながら、商品を見かけなくなって久しかったので。
母が退院してからは、そこで赤福餅を買って二人で食べた。
ちなみに6月1日の退院後。回復してからの母は、普通にサトウの切り餅とか、焼いたの普通に食べれた。)
それが昨日で、今日は2月9日。
母は朝は奈良漬けとご飯を一膳、昼は豚まんを一個、夜は水炊き(絹ごし豆腐、豚肉、ニンジン、シメジ、白菜)、おやつにミカンとジャイアントドリームポッキーを食べれた。
言葉も今日は十言以上喋ってくれた。
俺にとっては父も母も大切でかけがえがない。
もし死後の世界があるなら、父が好きだったキリンビールを手土産に、父に会いに行って、父を母のように病院から救い出せなかったことを侘びたい。
2020年12月31日の写真
2021年1月1日の写真
2021年1月3日の写真
2021年1月7日の写真
2021年1月21日の写真
2021年2月1日の写真
あ、2月2日の巻きずし食べてる写真撮るの忘れた…
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