璧とは、玉=翡翠(ヒスイ)を加工したものです

今から二千数百年前の中国の戦国時代。

趙の恵文王の家臣に、藺相如(りんしょうじょ)という人がいました。

恵文王は、後に中国を統一する強国秦から、秦の十五城と趙国の至宝である和氏の璧(かしのへき)を交換しようと迫られました。

断れば戦争の口実にされ、受けても約束が守られる保障はありませんでした。

和氏の璧を秦王に届ける役は、藺相如でした。

藺相如は秦王に会い、和氏の璧を渡しましたが、秦王は約束を守る素振りを見せません。

そこで相如は一計を案じ、その璧には傷があるので教えましょうと語り、秦王から璧を受け取り、そのまま柱の側に寄り、怒りに髪を逆立てた形相(怒髪天を衝くの故事)で、一国の使者に対する非礼と、約束を守ろうとしない秦王の態度を叱責し、このまま和氏の璧もろとも自分の頭を柱にぶつけて粉々に砕いて死のうとしました。

すると秦王はあわてて非礼を詫び、藺相如に許しを請いました。

そして藺相如は和氏の璧を無事趙に持ち帰り(完璧=璧をまっとうするの故事)、趙も恥を受けることがありませんでした(戦国策)。

この和氏の璧は、元々は楚の文王の時代に、楚の国の荊山(けいざん)の崑崗谷(こんこうこく)で、卞和(べんか)という人が見つけたものでした。

卞和は初め、これを文王に献上しましたが、文王は玉璞(ぎょくはく=まだ磨かれていない玉=ヒスイ)の価値に気づかず、卞和に騙されたと思い、卞和の左足を切らせました。

文王の次に武王が王位につくと、卞和はまた玉璞を献上しました。

しかし武王もその価値が分からず、今度は卞和の右足を切らせました。

卞和は荊山の麓で玉璞を抱き、血の涙を流して嘆きました。

荊山はそれに感じて崩れたといいます。

次に武王の子の成王が王位につきました。

卞和はまた玉璞を献上しました。

成王はこれを磨かせて、摯玄蔵(しげんぞう)という人にその価値を尋ねました。

すると摯玄蔵は、一つの城(都市のこと)を金で満たしたとしても、この玉には換えられない程の価値がありますと答えました。

そこで成王は、これを『連城の玉』と名づけました。

その頃、趙の国に美しい姫がいました。

成王はその姫を望みましたが、趙王は承知をしませんでした。

そこで成王は、卞和の玉を趙王に贈り、姫との結婚を許されました。

それ以来、この壁玉は趙の至宝となりました。

卞和の故事は、どれほど才能に優れた人でも、見る目の無い人の所へは行くな、という意味でも使われます(千字文)。

ちなみに楚国には、夜光の玉という宝もありました。

これは楚の家臣隋侯が、海竜王の子を助けたおり、その恩として与えられたものです。

隋侯は楚王にこれを献上しましたが、この珠は夜になるといつも光輝いたそうです(捜神記)。

夜光の玉といえば、平田篤胤の仙境異聞においては、仙界からの帰還者寅吉が、仙界において夜学に用いるという、夜光の玉の作り方を説いています。

それは、月夜木という光る木を細かにして、ガラスを丸く吹いたものの中に入れて机上に置くと、夜光の玉という光るものになるという話でした(仙境異聞)。

天水晶の心臓

過去に書いたものでも置いて行こうかと思います。

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