大正時代に優生学を否定した本

2013-12-30 20:58:40

大正時代の医学博士杉田直樹の本に、『天才児の教育』(大正13年・1924)というものがあります。

この本の天才の定義は、1944年にハンス・アスペルガーが発見したアスペルガー症候群の定義とそう変わらないんじゃないかと思います。

杉田直樹はこの本の中で、天才とは変質(普通とは違う病的な性質や性格)の一種であるが、同じ一つの変質からたまたま良い方向に発現したのが天才で、たまたま悪い方向に発現したのが精神疾患者だと述べます。

杉田はフランスのある学者の論、すなわち、変質を優等変質と下等変質の二種に分類し、天才はすべて優等変質から生じ、社会的に役に立たない者(異常性格者・知能の劣る者・等)は、皆下等変質から生じる、と言う考えを否定します。

『し かしながらこの両者とも先天的の変質たるにおいて全く同一でありまして、唯偶然にもその変質の現れた方向が、一方は優良なる素質であり、一方は不良なる素 質であるというのに過ぎないのであります。ゆえに医学的に見て一概に変質と論じまする際には、優等も下等もなく、同一律に論じなければなりません』 p170

杉田直樹は、天才には奇行の逸話が付き物だが、奇行そのものが天才ということではないので、天才に憧れる者がいくらその奇行を真似たところで、天才にはなれないと述べています。

昔のある芸術家は破れた衣服をまとい、頭髪は生え放題にして芸術に精励し、優れた芸術を生み出したが、最近の青年はその外装だけを真似、派手な着物を来たり髪を伸ばし放題にして満足しているが、それで天才になれるわけではないと述べています。p17

杉田直樹は、天才の家系からいつも必ず天才が出るというものではないとして、天才の身内や家系には、同様の才能ばかりではなく、厄介者、変わり者、精神疾患者の居ることが多いことを指摘して、天才もこれらのものも、皆同じ一つの変質から生まれ出ることの証左としています。

杉 田直樹は、『優生学的運動が普及し、変質者の結婚についていろいろの考慮が払われるようになりましたことは喜ぶべき次第であります。唯惜しむべきことは、 この優生学的傾向の進むに伴い、全然変質なるものが除かれてしまいましたならば、我々の目指す所の天才者の発現の機会をかえって少なくしてしまいはしない かと、一面においてはなはだ遺憾として居る所であります。』(p185)、と優生学を遠まわしに批判しています。

この文章の直後、スパルタ教育で 有名な古代スパルタでは、赤子の内劣等なものは国家の役に立たない、として毎回殺していたので、スパルタの国民は武術的能力を持つ者のみに均質化し、つい に多様な天才を輩出することなく文運は尽き、国家としての体裁も失うことになったと続けます。

(優生学というのは断種政策に繋がる考え方で、優秀な遺伝形質だけを持った子孫を作るため、人為的な淘汰を行おうという思想です。劣等と見なされた者は間引くということです。

この思想は進化論で有名なダーウィンの従兄弟、ゴルトンから始まり、明治期の日本にも伝わりました。)

以下、杉田直樹の『天才児の教育』要約

数学の才能を持つ者に文章の才能が欠けていたり、絵画の才能を持つ者に論理方面の才能が欠けている場合があるように、一方に秀でた才能を有していながら、その埋め合わせのように、他の才能なり性格に欠陥を伴っている例も多い。

フランスの学者達は、天才というのは決して一方の才能が秀でた者を言うのではなく、才能が一方に偏って現れたものなので、これを不平均者(déséquilibre)と呼ぶ。

つ まり平均的に発達すべき各方面の調和が破れ、ある一方のみが力強く濃厚に現れ、他の能力が希薄になっているという解釈で、要するに、天才児は知能又は性格 上の先天的な不具者であり、あるいは成長の過程で、知能又は性格に不平均な発達をしたものと定義され、普通の定形からかけ離れた、能力の異常偏向者と見做 されている

天才と称するものは、この偏向した才能の部分が、社会に対して有利に働くようなもので、社会組織に対してこれを損なうようなものは、ここでは取り上げない。

つまり窃盗の才能や、暴力の才能が人並み以上である者は、これを機械的に見れば優れた才能とするべきかもしれないが、ここでは天才を奨励する意味から、実利的な目的を含むものだけを天才と呼ぶことにする。

あるドイツの学者は、常識以上の偉いことをするのが天才であり、常識以外の桁外れのことをするのが狂人だと述べている。

精神病院の患者の中には絵画に巧みな者や、手細工の巧みな者がいるが、彼らの作った作品を覗いてみても、そこに他人と共感できる秩序や目的は認められず、他人と共感することを度外視しているものが多い。

従って、その作品がいかに巧みに作られていても、何人(なんびと)もその技量に服すことはできない。

つまりその技能の現れが、誰にも共感されずに自分勝手であるという点において、狂人と呼ばれる。

同じ技能が他者の趣味性に適するように発揮される場合は、これを天才と定義する。

ビネー、シモン氏法のような知能検査は今日(大正13年)一般的だが、知能の優劣をもって人間の優劣を定めるのは不十分である

『知能指数がずば抜けて高いというようなことばかりをもって、人間の優劣を定めることは、必ずしも不適当とは申されますまいけれども、どこか不十分な点がありはしないかと思うのであります。』p12

『そ の一々の問題やその査定検査の方法等につきましては、教育界に既に多くの著述も出版されて居ることでもありますから、私は一切ただ今は申し上げません。こ とに当節は各学校の入学試験の方法としましても、この知能測定すなわち「メンタルテスト」をば、各学校において学科試験の代わりに行っているような状態で ありますから、父兄の方々においても、おそらく既にその大体のことはご承知のことと考えます』p13

児童の生活年齢と知能とが一致している時の知能を100とし、知能指数が90~120までの児童を普通の発達を遂げた児童と見なし、75~90までの児童を劣等児と称し、75以下の児童を低能児と称し、120以上の児童を優良児と称し、140以上の児童を天才児と称する。

例えば、10歳の児童が12歳の知能測定の問題をやすやすと解けば天才と呼ばれるが、12歳の児童が同じ問題をやすやすと解いても天才とは呼ばれない。また、青年に達した者がこの問題を解いても賞賛されることはない。

ビネー、シモン氏法の知能査定では、満14歳をもって知能測定の上限となす。

知 能は14歳で完成し、以降知識は増えても知能に変化はないとするが、仮に現在10歳の児童が、知能指数140以上の天才を示したとしても、1年後や2年後 に測定すると、それよりも知能指数が低下していることがあり、満14歳時点で知能指数140以上の者が、それ以降もその知能を維持できるかどうかは疑問で ある。

要するに、ビネー、シモン氏法の知能査定というのは、ただ知力の一時的状態を表す便宜上のものに過ぎない。

ビネー、シモン氏法の知能査定では、一般知能が平均的に発達しているものを天才と呼ぶが、知能の一部分だけでも優秀な点があれば、私(杉田直樹)はこれを天才の萌芽と見たい。p22

『よ く小学校や中学校において見られまするごとく、数学が非常に得意で上手であるが、文章がからきし下手だとか、また絵画が拙劣だとかいうことのために、その 学科平均点が低くなりまして、席順はずっと下るような者があり、数学ばかりが抜群でも必ずしもこれを優等生として賞揚することが出来ないことがあります。 しかしこの児は数学だけの能力については、級中誰一人その児童に及ぶものがなき程、優秀な能力を示しているのであります。私はそういう偏向した優秀者を特 に天才者として、その偏向した才能の保護発達をはかってみたいと考えるのであります。』p22

能力の平均的発達を望む者から見れば、偏っ た能力を発達させて、平均的調和を失わせることになるかもしれないが、『一芸に秀でているものは必ずどこか性格上においても知能の上におきましても、偏頗 ((へんぱ=偏っていること))な所のありますもので、何となく計画的には調和し難いような偏屈の人が、天才者の間には多く見受けられるのであります。こ れは要するに優秀なる知能、技能の特殊の作用のために、一般精神発達の平均的の調和が、犠牲に供せられたのでありましょう。』p23

中略

『私共精神医学に関係していますものは、人の本然的特徴として、たとい偏向的であっても、その特有の能力の徹底的の発達を望むのが教育の本義ではないかと愚考いたします。すなわち教育とは自然の性能発達を最も有効に補助援護するものであろうと思います。』p24

『ここに一人の児童がありとしまして、その児童がいかなる事物について天賦の特徴的能力、または興味を有しているかを知ろうと思ひましたならば、まずその子供をあらゆる事柄に接触せしめて、いかなることに果たして興味を持ち得るかを試すにしくはありません。』p117

中略

『あるいは絵画も描かせてみる、文字も書かせてみる、文章も作らせてみる、あるいは種々の工夫計画などもさせてみる、またあるいは種々の思考をさせたり、身体の練習をさせてみて、その忍耐性であるとか、努力の程度が高いとかいうこともそれぞれに計ってみます。

ま たときおり種々の滑稽奇才頓智((とんち))というがごときものについても試験を試みる、そうしてその子供を気ままにさせて放任しておけば、いかなること に興味をもって遊んでいるか、傍らから無理やりに色々のことを強いてさせたり、圧制を加えたりせずに、当人の思うままに行動させて、もってその興味の自然 に向かう所を』p117

『今日のごとく普通教育においては、画一的の教育法が行われまする時代におきましては、往々ある種の天才 者はその学級全体の授業の妨げになると言って、教師からむしろ疎んぜられ疎外せらるるごときことさえもしばしば認められないではありません。また家庭にお きましても同様で、例えばあまり朝から晩まで音楽ばかり好んでやって居る子供がありますれば、父兄はむしろそれを制して止めさせその天才の萌芽を抑圧しよ うとする傾向があるようであります。

これらは天才者に対する理解を欠き、または天才養成の方法等についての知識が普及して居らないためで』p143

中略

『早 い話が我が国では教育と言えば教え育てるという文字をもってこれにあてその意味もまた外部から付加的に教え育てて行くことのように考えておりますが、英語 やドイツ語の原語で見ますと、教育という意味に相当する文字(Education, Erziehung)は、教え育てるという意味ではなくして、その天才の才能を引っ張り出し、それを完全に発達させて行くという意味をもっているのであり ます。』p154

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天水晶の心臓

過去に書いたものでも置いて行こうかと思います。

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