民衆娯楽の推移

2013-12-29 20:00:40

『民衆娯楽』(1924)というのは、大正13年に書かれた娯楽論の本です。

著者権田保之助の論を要約すれば、昔と現在(大正時代)とでは娯楽のあり方が変化していて、江戸時代あたりは仕事そのものが娯楽的であり、昔の娯楽そのものは道楽や暇つぶしの要素がありましたが、今の仕事には娯楽的な要素がなく、時間に追われる生活の中では娯楽はとても暇つぶしとは言えず、道楽のように趣味を極める時間は持てないというものです。

さらに、昔の職人は自らが趣味的に商品を作り出し、買い手も馴染みの職人に対して自分の好みに合うように注文しましたが、今の世の中ては個々の作り手が自ら趣味的な商品を作ることが許されず、買い手も工場で大量生産された完成品の中から好みの物を選び出し、制作の段階で注文をつけることはできません。

娯楽にしても昔は自らが参加しましたが、今(大正時代)は専門家が作った物を選択的に鑑賞します。

音楽は三味線等、昔は自分が上達しなければ音の善し悪しは分からず、芝居にしても全編通して理解していなければ、忠臣蔵の一幕だけを見ても分からないというものです。

昔は鑑賞する側も玄人を目指し、そこに参加する必要がありました

昔は娯楽というのは玄人を対象にしていましたが、今日(大正時代)では大衆を対象にしたものに変化しています。

著者は現代(大正時代)の娯楽が、浄瑠璃等の型にはまったものから、浪花節等の型を持たない自由な素人芸に推移し、そこに新しい民衆娯楽の特色があると言います。

浄瑠璃には台本があり、浪花節には台本のないことを、今の時代に合っているとして肯定しています。

体育(スポーツ)も昔は学生や選手のもので、大衆はそれを鑑賞するものでしたが、今では大衆が参加するものに変わったと言います。

(私の感想

江戸時代の芸能は、玄人(プロ)と素人(アマ)の境が曖昧です。それが明治以降その境がはっきりして来ます。

私は1980年代以前とそれ以降のテレビ番組も、この状況に似ているんじゃないかと思います。

それまではきっちり台本があり、進行が決められていたものが、フリートークや素人芸が持てはやされるようになりました。

1980年代以前は、プロ(玄人)とアマ(素人)がきっちり分かれていました。

さらに娯楽も、明治以降の与えられたものを選択していた時代から、ブログや投稿動画サイト等、大正時代の著者が古い時代と大正時代を較べて感じたと同じように、大衆が気軽に参加する時代に再度推移したように思います。)

余談として、この『民衆娯楽』(大正13年12月・1924)が出版されたのは関東大震災(大正12年9月1日・1923)の一年後で、著者も大震災直後の様子を前書きに書いているので紹介します。

『震災後間もなく、まだ余震が時々激しくやって来るときに、一番初めに市中の焼けた跡、辻々至る所に現れたものは自転車のタイヤ直しと、渇きを癒す梨とスイカを売る店と、それにあい並んでコップ酒を売る露天とでありました。浅草を奪われ銀座を失い、活動写真館、寄席((よせ))その他娯楽場をことごとく奪われてしまった東京に、その時わずかに生まれて来ましたのはかの日比谷公園有楽門の入り口の露店街でありました。そこには非常にたくさんな露天が並んで、電気もない所からビンの底を抜いてその中にロウソクを立てて夜を照らし、色々物を売るのでありました』p7

中略

『震災後間もなくバラックが至る所に建てられたのでありますが、そのバラックにおいては九月一日からわずか一週間を経たくらいで、まだ死人の香が紛々と鼻を突く間にあって、夜のバラックよりハモニカの音が聞こえるようになったのであります。』p9

中略

『震災後ニ、三週間を経るにつれて人々は娯楽を痛切に欲求してまいりました。』p10

中略

『東京市社会教育課を初め、公私の団体あるいは有志の個人の手によりまして、日比谷、浅草、上野、芝あるいはその他集団バラックのある所は言うまでもなく、各地区にわたって慰安的の催し物が続々と行われ、それがどれほど歓迎されて、どれほど大きな効果をもたらしたのであったか、また十月に入って各種の興業物が始まって、これらがどれほどの景気を示したかと言うことはここで一々申し上げるまでもなく諸君のよくご承知のことと存じます。』p11

それでは以下、要約に用いた具体箇所を載せておきます。

面白いエピソードが多いので、↓も読んでみてくださいね。

私的には魚河岸の野球チームのくだりが何か和みます。

『かの時代にはお得意から注文があって、物を作るとしますと、その注文主の意向に応じて一から十まで自分が手を下して仕事をする。たとい弟子を使うにしても自分が絶えずその仕事の工程を監督している。であるからこの時代には一人でもって仕事の全体をやる。自分は手を下さないでも、たとい弟子に手伝わせるにしても、初めから終いまで見きわめることが出来たのであります。そればかりでなく自分の作った品物を誰が使ってくれるか、誰が賞玩してくれるかということが、よくわかっていたのであります。よって自分はそのやっている仕事を楽しむことが出来た。』p14

『つまりかの時代の娯楽、踊りにしても、三味線にしても、それは歌のリズムがよいとか、三味線のリズムが工合がよいとか、師のプロポーションがよいとか、それだけで見たり聞いたりしているのではなくして、たとい玄人にならぬまでも玄人と似たような練習をし、あるいは玄人と同じような心持ちになって味わって行かなければその味が分からない。のみならず玄人的の練習をして初めてその味が分かるというのみでなく、あの時代には練習をすることそれ自体がすでに一つの娯楽になっておったくらいであります。』p24

中略

『そこで古い時代のように玄人式の娯楽、あるいは玄人式の練習というものによって今日の民衆娯楽を得ようというのは不向きでありまして、全然反対に、素人の心持ちで、何にも素養のない、何にも練習のない者が見て、すぐさまその味・その面白みがわかるような娯楽が生まれて来るわけであります。ですから玄人になったり、通を振り回して味わう娯楽というものでなしに、今日の時代における娯楽は一般の人々の日常生活からただちに、すなわち日常生活における心持ちをそのままに働かしめて、それで味わって行き得るものとなったのであります。実に今日の娯楽は素人丸出しでよい、そうしてそれは日常の実生活を引き延ばして行った所に成り立ったのであります。そこに近頃の新しい民衆娯楽の特色がある。その最もいい例は活動写真でありますが、その他にもなお色々の例があります。たとえば浪花節というものもそれであります。この浪花節と労働者の生活というものとには面白い関係があるように考えます。なぜかというと浪花節というものは皆様もご存知の通り型のない芸術であります。浄瑠璃のごときは泣こうという時には三声、笑おうという時には四声と言ったように、笑うことも、悲しいことも、怒ることもチャンと一つの型というのがあって、それに応じて行われるのでありますが、浪花節の方には型がない。浄瑠璃の方には台本がありますが、浪花節には台本はありません。』p25

『昔のように「忠臣蔵」ならばその脚本をひと通り残らず読まなければ、忠臣蔵の一幕だけ見ても分からないというようなものでなしに、今日はどんな素人が飛び込んで観ても分かるような活動写真式の芝居が出来てきた。』p34

『魚河岸((うおがし))の兄い連の間にも((野球の))チームが出来ております。この魚河岸の兄い連のチームと浅草における各種興業連のチームとが、芝浦のグラウンドでマッチ((試合))をやったことがあります。そのときは浅草が負けて魚河岸の兄い連のチームが勝ったということさえ伝えられておるくらいで、そういうことがあるのみならず、東京の活動写真の説明者のチームの連中は、大阪の関西弁士協会という説明者の団体があるが、そのチームに戦いを挑んで毎年遠征をしております。負けた方が遠征をすることになっていて、なんでも三年ばかり連続してそのマッチをやっているのであります。しかもそれが不まじめな売名的にやっておるのではなくて、一生懸命にやっておる。』p42

『各種の競技が今まではただただ学生が行う、一部分の人が選手となって走っていた。マラソンのごときは一時熱狂的に歓迎されて、その当時はそれこそ電車通りを海水着のようなものを着て、真っ黒になって飛んで行くのであります。かくのごとくただ単に学生の間のみの問題であったものが、今日では一般の人々がこれを行うようになった。それで今日では体育の方面の人の間に問題が起こりまして、職業的の人は競技に出ることを許さない。たとえば人力車夫の諸君、始終足でもって飛ぶことを商売としておる人達にマラソンに出かけられようものなら、とても普通の人は敵いッこない。そこでこういう職業的に走る人はマラソンの選手となって競技に加わる事は出来ないというような決議をやったくらい』p44 

天水晶の心臓

過去に書いたものでも置いて行こうかと思います。

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